第7話 陰
西日が差す廊下を歩く夏美の背中に声が掛かる。
「夏美。」
返事はしないものの、夏美は立ち止まる。
「※オリンポスの買い手が見つかった。来月から改修工事に入るから。もう使えない…。」
※オリンポス・・・閉店したボルダリングジム。夏美の父が債権を持っているため、現在空き店舗を管理している。
「分かりました…。」
「夏美、その…。」
父親が、まだ、話を続けようとしている雰囲気を感じる。だが、夏美は構わず歩み始める。父親の声が背中に届く。
「もし、ボルダリングを続けたいのなら、正規のお店で会員になって…。」
「…結構です。」
背を向けたままだったので、父親まで声が届いたかどうかは分からなかったが、夏美は依然歩みを止めず、突き当たりを曲がり階段を上りはじめる。
父親は視界から夏美が消えた方を見ながら立ち尽くしていたが、肩に手が置かれたのに気がついて振り返る。妻の佐夜子であった。佐夜子は首を横に振って時政に、諦めましょうという意思を伝える。少しだけ、夏美の去った方角を見ていた時政は、佐夜子と一緒に居間の方へ足を向ける。
夏美は、部屋のベッドの上で、ぼんやりと壁に貼られたボルダリングのポスターを眺めていた。昨年のワールドシリーズで活躍していた外国の選手が写っている。壁を登る表情は必死で、右手で次のホルダーを掴もうと手を伸ばしている写真だ。夏美がボルダリングを好きな理由は、自分の力で上へ上へと進んでいくことで、何かを突き抜けていくことができる、そんな感覚を得ることができるという点が気に入っていたからだ。もちろん小学校の頃、智里という友人とジムに通っていた時期があって、下地があるということもある。
そんな好きなボルダリングでさえ…。父親と距離を縮めることと天秤に掛けたときに、いとも簡単に捨てれるものなのか…。自分自身でも、何とも言いようがない感情が沸き上がっている。父に頼めば、何の問題も無くボルダリングを続けることができるだろう。現に今だって、空き店舗とはいえ、父が使えると提案してこなければ、使ってはいなかった。新しいジムの会費を払ってもらって、続けることと何が違うのだろう? でも、夏美には分かっていた。自分は絶対に父に、
「会費を払ってください。お願いします。」
などとは言わないことを…。だから、もうボルダリングとは、お別れなのかもしれない…。
(悲しい? ツライ? この程度のこと、あの時に比べたら…。 でも…。)
自然と携帯を取りだしていた。
(雷二郎…。助けて…。わたしをここから…。いや、違う…。アタシのこと愛して…。)
チャットの画面を開くところまで、何のためらいもなく指を進めていた夏美であったが、雷二郎という文字の画面から先には、進むことができなかった。やがて、画面が省電力モードになり、そして暗くなる。
(こんな解決方法を願うわたしは、馬鹿なのだろうか? でも、今は、それしか考えられない。馬鹿だと分かっていても…。)
携帯を握ってそんなことを考えていたときに、不意に携帯が鳴ったので、思わずビクッと反応してしまった夏美であったが、あらためて落ち着いて携帯画面を見る。智里と表示されている昔馴染みの友人からの着信だった。タップして携帯をオンにする。
「あ、夏美、元気~? どう最近は?」
昔から、ときどき連絡を取り合う仲であったが、もっぱらチャットが中心だったので、智里の声を聞くのは久しぶりだった。智里は小学校からずっとボルダリングを続けていて、確か夏はどこかへ遠征へ行くような話を聞いていた。自分がボルダリングを中途半端にやっていて、落ちたことを伝えようか? 一瞬、夏美はそう考えたが、すぐに「伝えるべきで無い」と判断した自分に驚いた。つまり智里との距離が遠くなっている。そう感じた夏美は寂しくなった。
「智里こそ元気? もうすぐ遠征に行くんじゃなかったっけ。ボルダリング」
「うん、そう。今年のアンダー18の大会は高知なんだ。で、ちょっと相談なんだけど…。」
「相談?」
「うん。結構お金が掛かるんだけど、え~と…。」
何か智里の歯切れが悪いなと思いながら、次の言葉を待ってると、
「夏美、ニャンキットって、アプリ知ってる?」
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