第9話 外泊
「雷二郎、上出来だ。」
雷二郎が手渡してきた書類を確認して、また、雷二郎に戻すと、下妻は嬉しそうにそう告げた。雷二郎は、その書類を下妻税理士事務所で働くもう一人の人物、長峰に持っていく。下妻が雷二郎に聞こえるように言う。
「そろそろ、雷二郎には、給金を出さなきゃならないな。」
雷二郎は、エッと言って振り向き、
「おじさん…。おじさんには、世話になりっぱなしだ。ここに来てるのも、自分の勉強のためだし、お金はもらえない。」
堅いこと言うなよ、と呟いた下妻は、長峰にも同意を求める。昨年大学を出たばかりの長峰は、まだ税理士試験に受かってはおらず、この事務所で仕事の経験を積んでいる若者だ。そんな彼も、
「ええ。雷二郎くんは優秀です。ぼくが15の頃なんて、ガキそのものでしたから…。所長の言うように、バイト代貰ってもいいくらいの仕事ぶりだよ。雷二郎くん。」
そう、雷二郎に声を掛ける。
「長峰さんまで…。でも、やっぱり戴けません。それじゃあ、今日は、これで上がります。お疲れ様でした。」
お疲れ~と、両人が雷二郎を見送る。下妻が、
「長峰っ、お前も気合いを入れろよ。まだ当分先だろうが、雷二郎に追い越されないよにな! 今年の試験必ず何とかしろよ。」
「ええ。彼を見てると、自分も、ほんと頑張らなくっちゃって…。」
下妻は、そんな長峰の言葉を聞き、やはり嬉しそうに頷くと、また仕事に取りかかった。
夜道を雷二郎の自転車が駆けていく。
「ムガのやつ、ちゃんと晩飯食ったかな?」
出掛ける前に準備しておいたレンチンするだけの状態の晩ご飯であったが、ときどきムガはギターに夢中になり、晩ご飯をそっちのけで演奏をし続けることがあった。それから、どうも最近、やたら、スピリチャルな世界に行くんだといって張り切っている。なんでもムガのYOUトンネルへ、そういった書き込みがあるらしいのだが…。
一度その書き込みでも見てみるか、ムガは何でも安易に引き受けちゃう無警戒なところがあるからな。新興宗教とか詐欺商法とかだったらマズいし…。そんなことを考えながらムガの家に到着すると、予想と違ってギターの音はせず、居間からテレビの音が聞こえていた。それと、笑い声も。居間へ続くドアを開けながら、
「ただいま。飯は食ったか? あれ・・夏美。」
ムガと一緒に居間のソファーでテレビを見ていた夏美が、雷二郎に振り向いて、
「センセイ、お邪魔してま~す!」
と陽気な声で言う。雷二郎は一度、隣の食卓のある部屋を見て、ムガが食べたことを確認した後。
「夏美、お前は食べたのか? それに、こんな時間に来てどうする気だ?」
「まあまあ、堅いこと言わないで、雷ちゃんも座ったら?」
ムガが向かいのソファーへ雷二郎を促す。雷二郎は座らず、
「いや、堅いことを言わせろ。夜は止めとけ夏美、前も言ったろ。うちらが上手くやっていくためには、お前ん家と仲が悪くなりたくないんだ。」
「雷ちゃん、まあまあ、最悪、少し遅くなっても僕ら二人が送っていけば…。」
ムガが妥協案を提示して雷二郎の説得を試みるが、夏美がムガの妥協案を台無しにする。
「今日は、泊めてもらおうって思って来た…。」
絶対ここで、否定の言葉を雷二郎が言うことが分かっているムガが叫ぶ。
「雷ちゃん! 待ったあ!!!」
そして、
「ね、ね、雷ちゃん。とりあえず事情を聞いてからにしようよ。」
ムガは、雷二郎に抱きつくと、そのまま突っ立っている雷二郎をソファーに座らせる。雷二郎が、
「夏、」
「雷ちゃん! 待ったあ!!!」
「ムガちょっと黙れ! 夏、」
「雷ちゃん! 待ったあ!!!」
ムガが必死になって雷二郎が夏美に話し掛けるのを妨害する。ジロリと雷二郎がムガを睨む。夏美が、
「ゴメンね…。あたしのせいで、二人が仲悪くなるのを見るのはツライよ。やっぱり帰るね。」
「ダメ! 夏美ちゃん。ここは僕に任せて! 恋のガーディアンから、恋のキューピッドに生まれ変わったボクの力で!」
ムガはそう言うと、
「雷ちゃん昔、ボクが辛いとき、一緒にお部屋で寝てくれたときあったよね。」
ムスッとしたままだが、雷二郎は聞いているような気がする。
「ボクはね。辛いときに救われたなって思ったのは、雷ちゃんがそこにいて、僕の気持ちを聞いてくれたことなんだ。雷ちゃんは、夏美ちゃんに帰れ帰れって言うけどさ。夏美ちゃんきっと、すごく今、ツライんだよ。お家に帰っても、誰も聞いてくれる人がいないんだよ。雷ちゃんは、夏美ちゃんを誰がどうやって救ってくれるのか、今言えるの? 言えないのなら、今日は僕の言うことを聞いて!!!」
「ムガくん…。」
夏美が呟く。雷二郎は、途中から目を閉じて聞いていたが、
「分かった…。ムガ、お前の母さんの部屋、先週掃除機は掛けたんだが、窓を一度開けて空気を、ってオイ!ムガ!」
ムガが夏美を連れ立って、はしゃいで居間から出て行った。
「夏美ちゃん、こっちこっち、お風呂場案内するね。今、お湯入れるから一番最初にどうぞ。鍵付いてるけど、掛けなくても平気だよ!」
雷二郎の眉間にしわが寄る。
「あのなあ…。」
お風呂場に通じる脱衣場兼洗面所のドアの前で、雷二郎が仁王立ちで腕を組んで立っている。もちろん夏美は、中からそこに鍵を掛けたが、ムガが阿呆なことをしないか、念のため雷二郎はここに立っている。途中二度ほど廊下の曲がり角からムガが顔を出して、こちらの様子を伺ったが、雷二郎がジロリと睨むと、ひぇ~!ガーディアンがいるぅ~という悲痛な叫びと共に慌てて顔を引っ込めた。
「雷二郎センセイ…。あたし、ボルダリング、もう続けられなくなっちゃった…。」
脱衣場の先に更にお風呂場のドアがあるので、夏美の声はかなり小さく聞こえる。雷二郎は聞いているという意思表示のつもりで、
「ああ…。」
と大きめの声で返事をした。
「オリンポスが改装に入るの…。だから、あそこはもう使えない。あたしさ…。」
パチャリ、お湯の波立つ音が聞こえる。
「いつの間にか、ボルダリングに依存してたんだなって、結構自分の支えになってたんだなって、初めて気付いたんだ…。お父さんとの事件のあと、学校に行かなくなってたときはゲームばっかりやってた…。ゲームに依存、恥ズイね…。」
また、お湯の波立つ音が聞こえる。
「何かに依存して生きていくのって、格好悪いかな?」
雷二郎の返事を聞きたいのだろう。雷二郎が答えないでいると、
「ねえ、雷二郎センセイ。何かに依存しているワタシって惨めに見える?」
どうなのだろう? 雷二郎はそこまで「依存」ということについて、深く考えたことがなかった。ただ、自分の生き方としては相容れないモノを感じる。でも…、ムガの言葉が蘇る。
「夏美ちゃん、お家に帰っても誰も聞いてくれる人がいないんだよ…。」
そう、今日は、聞き役に徹するべきだ。自分の考えを押しつけ合う必要はない。雷二郎はそう考えると、
「夏美、お前は、格好悪くない。お前は惨めじゃない。」
その雷二郎の言葉の後、大きめに、湯が波立つ音が聞こえた。もしかしたら湯の中に顔をドボンと入れたのかもしれない。しばらくして夏美の声が聞こえた。
「ありがと…。」
その後は、夏美が湯から上がってシャワーで体を流す気配が感じられた。
「今日は、友達の家へ泊まりますとは言ってある。ただ男の子の家だなんて、そんなことは言ってない。」
「そうか…。」
「ねえ、雷二郎センセイ…。私、いまセンセイに依存してるよね…。」
「そうか?」
「もし、このまま依存したら、迷惑?」
雷二郎からの返答にやや間があった。
「オレは、センセイだからな。そんな風に、人に依存してばっかりの甘ったれな生徒は、鍛え直してやるさ!」
ムガの母親の部屋で、ベッドに横になっている夏美は、部屋の天井を見つめながら、
(センセイに、上手くはぐらかされちゃったな…。あたしってば、何、告白みたいなこと言ってんだろ…。)
でも夏美は、お風呂場で、自分の胸の内から勢いよく湧き出てくる言葉の数々を止めることが出来なかったし、それを聞いて貰うことで、すごく楽になったことに気付いていた。そして、そんな告白を聞いて貰った相手を、より一層、好きになってしまっている自分にも…。
他人のお家へ外泊するというドキドキと、雷二郎のことを考えるドキドキで、夏美は、とても、眠れそうにはなかった。
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