第24話「パン屋『麦の香り』の甘い誘惑」

 爽やかな風が吹く日曜の朝、リリィは両親のテラとフローラと一緒に村の中心部へと向かっていました。今日の目的地は、村一番の人気を誇るパン屋「麦の香り」です。


「わくわくするね! どんなパンがあるのかな」


 リリィは目を輝かせながら、両親の手を引いて歩みを進めます。


「そうだね。きっと美味しいパンがたくさんあるよ」


 テラが優しく微笑みかけました。


 パン屋の前に到着すると、ドアを開けた瞬間、ふわっと漂う焼きたてパンの香りが三人を包み込みました。


「わぁ! いい匂い!」


 リリィは思わず声を上げました。


 店内に一歩足を踏み入れると、そこには色とりどりのパンが所狭しと並んでいます。カリカリのバゲット、ふわふわのクロワッサン、つやつやのメロンパン……。どれもこれも美味しそうで、リリィは目移りしてしまいます。


「いらっしゃい! 今日はどんなパンにしますか?」


 優しい声で話しかけてきたのは、パン屋のおじさん、ピーターでした。


「う~ん、どれにしようかな……」


 リリィは真剣な顔で悩みます。


「あせらずに、ゆっくり選んでいいのよ」


 フローラが優しく背中を押しました。


 リリィは一つ一つのパンをじっくりと観察します。

 するとふと、小さな籠に入ったカラフルなミニパンが目に留まりました。


「あ! これ、可愛い!」


「ああ、それは今日の特製ミニパンだよ。ひとつずつ違う味が楽しめるんだ」


 ピーターおじさんが説明してくれました。籠の中には、くるみパン、チョコチップパン、ブルーベリーパン、チーズパンなど、小さくてかわいいパンがぎっしり詰まっています。


「わぁ、すごい! 全部食べてみたいな」


 リリィの目が輝きます。


「どれにする?」


 テラが優しく尋ねます。


「うーん……」


 リリィは、目の前に広がるミニパンの海を前に、真剣な表情で考え込みました。小さな眉間にしわを寄せ、大きな瞳は次々とパンを追いかけます。


「うーんと……」


 くるみパンに目が留まります。

 香ばしい香りが鼻をくすぐり、リリィの脳裏に温かい記憶が蘇ります。


(ああ、これはママが作ってくれるくるみクッキーの香りに似てる……)


 しかし、すぐ隣にあるチョコチップパンが目に入りました。

 つやつやとした表面に埋め込まれたチョコレートの粒が、まるで宝石のように輝いています。


(でも、チョコも捨てがたいな……甘くて美味しそう!)


 リリィの頭の中で、くるみパンとチョコチップパンが戦い始めます。

 片方を選べば、もう片方を諦めなければならない。

 その葛藤に、リリィの小さな心は揺れます。


 そんな時、ふとブルーベリーパンの鮮やかな紫色が目に飛び込んできました。


「わぁ、きれい……」


 思わず声が漏れます。

 まるで小さな宝石箱のような、その美しさに見とれてしまいます。


(こんなにきれいなパン、食べるのがもったいないくらい……)


 しかし、次の瞬間、チーズパンの香りが鼻をくすぐりました。

 ほんのりと塩気のあるその香りに、リリィの口の中がじわりと湿ります。


(でも、チーズパンも美味しそう……あ~、どうしよう!)


 リリィの頭の中で、四種類のパンがぐるぐると回り始めます。

 くるみの香ばしさ、チョコの甘さ、ブルーベリーの美しさ、チーズの塩気。それぞれの魅力が、まるでメリーゴーラウンドのように次々と押し寄せてきます。


「んん~……」


 リリィは思わず目を閉じ、小さな手で頭を抱えます。

 あまりの選択の難しさに、頭がくらくらしてきたのです。


「リリィ、大丈夫?」


 心配そうに尋ねるフローラの声も、遠くで聞こえているような気がします。


(どれも捨てがたい。でも、どれか一つを選ばなきゃ。でも、選べない。でも、選ばなきゃ。あ~、どうしよう!)


 リリィの頭の中では、パンたちが踊りの饗宴を繰り広げています。くるみが跳ね、チョコが溶け、ブルーベリーが弾け、チーズが伸びる。その幻想的な光景に、リリィの思考はますます混乱していきます。


「リリィちゃん?」


 今度はピーターおじさんの声。

 でも、リリィにはもう周りの声が聞こえていません。

 ただただ、パンへの想いだけが渦巻いているのです。


 そして――


「あのね、パパ、ママ。全部欲しいな……」


 長い沈黙の末、リリィはようやく小さな声で、恥ずかしそうにつぶやきました。

 真剣に考えすぎた結果、全てを選ぶという答えにたどり着いたのです。

 頬は少し赤く、もじもじした表情を浮かべていますが、その目には決意の色が宿っていました。


 テラとフローラは、そんなリリィの姿を見て、思わず笑みがこぼれます。真剣に悩む娘の姿に、愛おしさを感じたのでした。



「そうだね。じゃあ今日は特別に、全部買っちゃおうか」


 テラが提案しました。


「本当? やった~!」


 リリィは飛び上がって喜びます。


「でも、一度にたくさん食べちゃダメよ。ひとつずつ、しっかり味わうのよ」


 フローラが優しく諭します。


「は~い!」


 リリィは嬉しそうに頷きました。


「それじゃあ、この特製ミニパンセットをください」


 テラがピーターおじさんに告げると、おじさんは目を細めて微笑みました。


「分かった。特別な日のお祝いに、ちょっとおまけもつけておくよ」


 おじさんは、大きなクロワッサンを一つ袋に入れてくれました。


「ありがとうございます!」


 三人は声を揃えて礼を言いました。


 店を出る時、リリィは大切そうにパンの入った袋を抱えています。


「楽しみだな。どれから食べようかな」


 リリィはうきうきしながら、両親と一緒に帰り道を歩き始めました。パンの香りと幸せな気持ちに包まれて、今日という特別な日の思い出が、リリィの心に深く刻まれていくのでした。

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