第5話「木の葉の囁きと少女の成長」

 春の柔らかな日差しが、リリィの頬をそっと撫でる。冬の間眠っていた大地が、少しずつ目を覚ます季節。リリィは今日という日を、心待ちにしていた。


「リリィ、準備はできた?」


 母の声に、リリィは飛び起きた。


「はーい! 今行くわ!」


 急いで着替えを済ませ、朝食を摂る。パンの香ばしい香りが、リリィの胃袋を優しく刺激する。


「今日は大切な日だからね。しっかり食べないと」


 父が優しく微笑みかける。リリィは大きく頷いた。


 朝食を終えると、家族そろって畑へと向かう。今日は、リリィが初めて本格的に種まきを手伝う日だった。


 畑に着くと、リリィは目を丸くした。冬の間は寒々しかった大地が、今はふっくらと柔らかそうだ。


「わぁ……畑が変わってる!」


「そうだね。パパが耕したんだよ」


 母が説明する。リリィは畑の端から端まで、わくわくした様子で見渡した。


「さあ、始めようか」


 父が小さな袋を取り出す。中には、様々な野菜の種が入っていた。


「リリィ、これを持っていてね」


 父がリリィに小さなスコップを渡す。リリィは大切そうにそれを受け取った。


「まず、畝を作るんだ。こうやってね」


 父が実演して見せる。リリィは真剣な表情で父の動きを観察した。


「じゃあ、リリィもやってみようか」


 リリィは恐る恐る、スコップを地面に突き立てた。


「あれ? 思ったより固いや……」


 小さな腕に力を込めるが、なかなか思うように畝ができない。


「大丈夫よ。ゆっくりでいいの」


 母が優しく背中を押す。リリィは口を尖らせながらも、懸命に畝作りに挑戦した。


 少しずつだが、リリィの手によって畝が形作られていく。汗が額を伝い落ちる。


「できた!」


 リリィは誇らしげに自分の作った畝を見つめた。


「すごいじゃない。立派な畝だわ」


 母が頭を撫でる。リリィは嬉しさで胸がいっぱいになった。


 次は、いよいよ種まきだ。


「この小さな袋に入ってるのが、ニンジンの種だよ」


 父が説明する。リリィは袋を覗き込んだ。


「えっ? こんな小さいの?」


 リリィは驚いた。種はほんの小さな粒に過ぎない。


「そうなの。でも、この小さな粒から大きなニンジンが育つのよ」


 母の言葉に、リリィは目を輝かせた。


「すごい! 魔法みたい!」


 両親は微笑ましそうに見守る。


 リリィは慎重に種を手に取り、畝に置いていく。小さな指で、優しく土をかぶせる。


「そうそう、その調子よ」


 母が励ます。リリィは真剣な表情で作業を続けた。


 時間が経つにつれ、リリィの動きもスムーズになっていく。畑一面に、様々な野菜の種が蒔かれていった。


 作業を終えた頃には、日はすっかり高く昇っていた。


「よくがんばったね、リリィ」


 父が頭を撫でる。リリィは疲れた表情を浮かべながらも、満足そうに微笑んだ。


「これからどうなるの?」


「そうねぇ。毎日水をやって、大切に育てていくの」


 母が説明する。リリィは大きく頷いた。


 その日から、リリィは毎朝欠かさず畑に通った。小さなジョウロを手に、丁寧に水やりをする。


「早く芽が出ないかなぁ」


 リリィは毎日、期待に胸を膨らませた。


 しかし、日が経っても変化は見られない。リリィは少し不安になり始めた。


「ママ、おかしいの? 芽が出ないよ」


「大丈夫よ。種は土の中でゆっくり準備してるの。もう少し待ってみましょう」


 母の言葉に、リリィは安心した。それでも、毎日欠かさず水やりを続けた。


 そしてある朝のこと。


「あっ!」


 リリィは目を見開いた。畑の一角に、小さな緑の芽が顔を出していた。


「パパ! ママ! 見て見て!」


 リリィは興奮して両親を呼んだ。


「本当だ。芽が出たね」


 父が笑顔で言う。


「おめでとう、リリィ。あなたが蒔いた種が、芽を出したのよ」


 母の言葉に、リリィは感動で目頭が熱くなった。


(私が蒔いた種……私が育てたんだ)


 その瞬間、リリィは言葉では表現できないほどの喜びを感じた。それは、生命の神秘に触れた時の、畏敬の念に似た感動だった。


「これからもっともっと大きくなるんだよね?」


「そうだよ。でも、まだまだ時間がかかるからね」


 父の言葉に、リリィは少し考え込んだ。


「うん、分かった。毎日お世話するから、大きくなるまで待ってる!」


 リリィの決意に、両親は優しく微笑んだ。


 その日から、リリィの畑での日課はさらに楽しいものになった。水やりはもちろん、雑草を抜いたり、土寄せをしたり。毎日少しずつ成長する野菜たちを見守ることが、何よりの喜びだった。


(私も、この野菜たちと一緒に大きくなるんだ)


 リリィはそう思いながら、畑の中を駆け回った。春の陽射しが、彼女の姿を優しく包み込んでいた。



 畑仕事を終えたある日の午後、リリィは母と一緒に台所に立っていた。エプロンを身に着けた姿は、まるで小さな大人のよう。


「リリィ、今日はお菓子作りを教えてあげるわね」


 母の言葉に、リリィの目が輝いた。


「わぁい! 何を作るの?」


「そうねぇ……。春だから、イチゴのタルトはどう?」


 リリィは大きく頷いた。


 母の指示に従って、リリィは慎重に材料を計量し始めた。小麦粉、バター、砂糖……。それぞれの分量を正確に量るのは難しかったが、母が優しくサポートしてくれる。


「あら、リリィったら。頬に小麦粉が付いてるわよ」


 母が笑いながら、リリィの頬を拭う。その仕草に、リリィは何だか温かい気持ちになった。


(ママ、優しい……私、ママみたいになりたいな……)


 ふとそんな思いが胸をよぎる。


 タルト生地を丸く伸ばし、型に敷き詰める。オーブンで焼き上げる間、リリィは母と一緒にイチゴを洗い、ヘタを取る作業に没頭した。


「ねえママ、私もママみたいに上手にお料理できるようになるかな?」


「もちろんよ。リリィはもう上手にできてるじゃない」


 母の言葉に、リリィは嬉しくなって頬が緩んだ。


 タルトが焼き上がると、甘い香りが台所中に広がった。クリームを塗り、イチゴを並べていく。


「わぁ、きれい!」


 完成したタルトを見て、リリィは思わず声を上げた。


「本当に素敵なタルトね。リリィが作ったの?」


 父が仕事から帰ってきて、驚いた様子で言った。


「うん! ママと一緒に作ったの!」


 リリィは誇らしげに胸を張る。


 夕食後、家族でタルトを楽しんだ。


「美味しい! リリィ、すごいじゃないか」


 父の言葉に、リリィは幸せそうに微笑んだ。


 その夜、ベッドに横たわりながら、リリィは今日一日を振り返っていた。畑仕事で野菜の成長を見守ること、母と一緒にお菓子を作ること、家族と美味しいものを分け合うこと……。


(私、この世界に女の子に生まれてきて良かったな)


 そんな思いが、自然と心に浮かんできた。

 それは、これまで意識したことのない、新しい感覚だった。


 翌朝、リリィはいつもより早く目覚めた。鏡の前に立ち、自分の姿をじっと見つめる。


(私、女の子なんだ)


 その事実を、まるで今日初めて新しい発見をしたかのように感じた。

 長い髪、小さな手、優しい目……。


 リリィは自分で髪を梳かし始めた。少しぎこちない手つきだが、一生懸命に。


「リリィ、起きてる? ……あら、自分で髪を梳かしてるのね」


 母が部屋に入ってきて、驚いた様子で言った。


「うん! ママみたいにきれいになりたいの」


 リリィの言葉に、母は優しく微笑んだ。


「リリィはもう十分素敵よ。でも、ママがもっときれいにしてあげるわね」


 母がリリィの後ろに座り、優しく髪を梳き始めた。


「ねえママ、私、女の子で良かったな」


 リリィのつぶやきに、母の手が一瞬止まった。


「そう……。ママも、リリィが私たちの娘で本当に幸せよ」


 母の声が少し震えていた。

 リリィには分からなかったが、それは喜びの涙を堪えているからだった。


 髪を整えてもらったリリィは、鏡に映る自分の姿を見て満足そうに頷いた。


「今日も畑に行こう! お花も植えたいな」


 リリィの声は、いつになく弾んでいた。

 リリィは女の子としての喜びを、少しずつ、でも確実に感じ始めていた。


 朝日が差し込む窓辺で、新しい一日の始まりを告げるように小鳥がさえずっていた。リリィの心は、春の芽吹きのように、静かに、でも力強く成長を続けていた。

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