第29話 温泉

 帰りたい気持ちとは裏腹に、道中に点々と横たわる大きな蜥蜴の死骸のせいで行きよりも時間がかかり、町に着いたのは空がオレンジから藍色に変わる頃だった。

 詳しい話は明日になるそうだけど、【第四】の三人はひとまず作業が終わった報告に行くと言って市の中心部方面へ車を走らせ、僕とユルヤナはホテルに向かう。


「温泉! 温泉!」


 ユルヤナはさっきからそれしか言っていない。知らない所を歩く時は僕の横にいるか一歩後ろを付いてくることが多いのに、今は僕の一歩前を歩いている。というかちょっとスキップしている。


「そんなに温泉好きなんだ」

「もちろん。身体が温まるし、肌も綺麗になるし」

「なるほど」


 それ以上ツヤツヤになってどうするんだと思ったけど、きっと美人には美人なりの努力があるのだろう。




 ホテルはそれなりに綺麗で大きな建物だったけど、町の一番大きな産業である溶岩地帯観光への規制がかかっているせいか、宿泊客の姿はまばらだった。明日以降に山道が整備され、安全が確保されたら徐々に回復するはずだ。


「逆におれたちには都合が良くない?」

「うん、広々使えるな」


 大浴場の更衣室はがらんとしていて、棚には先客の衣服も見当たらず貸切状態だった。僕がもたついている間にユルヤナはさっさと服を脱ぎ、腰にタオルを巻いて長い髪をうなじの高い位置でまとめ、自前のお風呂セットを持って速やかに大浴場に走っていった。慣れすぎじゃないだろうか。


「ツクモ、広いよ! 誰もいない!」

「走るなって書いてあるよ」


 一面に反響するユルヤナの声が言う通り、広い大浴場は温度や深さが異なるいくつかの湯船に分かれていて、奥には露天風呂もあると書いてあった。


「ていうか、今は隠さないんだ」

「? なんで隠すの? 温泉なのに」


 寝起きよりもあられもない姿なのでてっきり恥ずかしがると思っていたら、裸になるのは別にいいらしい。基準がよくわからない。でも何も知らない人が見たらきっと居心地の悪い思いをするので、他の客がいなかったのは本当に良かった。


 昼間の労働で被った土埃を洗い流し、ユルヤナが貸してくれたシャンプーで髪も洗ってすっきりしたところで、ようやく湯船に浸かった。


「はー……」

「うぃー……」


 少し色の付いた透明の湯に肩まで沈むと、思わず声が漏れる。ユルヤナも隣でやたら渋い声を出した。脚を伸ばして温まることしばらく、せっかく広いのだから好きな場所に行けばいいのに、何故かユルヤナが隣から動かないと思っていたら、じっと僕の腕を見ていた。


「何」

「いや、やっぱりちゃんと鍛えてるんだなと思って」


 自分の腕と改めて見比べていたらしい。逆に僕は、ユルヤナのほうこそ思ったより鍛えてるなと思ったくらいだ。小柄な細い身体には、ゴツくならない程度のしなやかな筋肉がついている。


「さすがに軍の訓練みたいな鍛え方はしなくなったから、ちょっと落ちたよ」


 何もしないと気が滅入る時や暇な時にトレーニングを続けていたのでそこそこ維持してはいるけど、実家に帰った時に母に言われたとおり、少し痩せたのは確かだ。


「これで?」


 つつくな。


「現役の筋肉なら後でトーマにでも見せてもらえばいい」

「トーマくんのは別格だと思うよ……」


 トーマは本当に体格に恵まれていて、そう小さくもないルカが小柄に見えるくらいだ。例に漏れず泳ぐのが少し苦手だったりする。

 再び僕の腕を取ってじっと観察しはじめたので今度は何だと思っていると、


「……傷多いね」


 血行が良くなったせいでいつもより浮き出て見える古傷を確認していたらしい。


「天才様なんだし、治癒魔法も使えるんでしょ? 治さなかったの?」

「治せる深さに限界があるし、作戦中は魔力を他に回すこともあったから」

「今残ってるのはそこそこ深い傷だったってことじゃん……」

「どれが何の傷かはさすがに覚えてない」


 改造魔銃で狙撃されたり、剣の達人に暗闇で襲われたり、今思うと我ながらよく生きていたなと思う。死にきれなかったと言ったほうがいいかもしれない。


「そういえば、魔導薬には一瞬で綺麗に塞がって跡もなくなるような薬があるんだっけ」

「高いよ! さすがに材料も常備してない」

「だろうな」


 確かかなり腕のいい魔導薬剤師だけが作れる最高級薬だという話だったけど、作れないとは言わない。


「……作ってやろうか、出世払いで。跡も消えると思う」


 傷跡が残っているせいで、僕が軍時代のことを思い出して苦しむのではと思っているようだ。確かにそういう時もある。でも僕は首を振った。


「今はいらない。全部なかったことになりそうだから」


 忘れたら楽になれると思うけど、忘れてはいけないと思う。


「そっか。必要になったら言って」

「わかった」


 あの瞬間に手元にあったらよかったのに。高くても一本くらい常備しておくべきだった。今更詮無いことを考えていると、ユルヤナがザバッと派手な水音を立てて立ち上がった。


「露天風呂行こ! ずっと浸かってるとのぼせるよ」

「うん」


 一人で行ってもいいのにわざわざ僕を誘うのは、たぶん気遣いだ。ありがたく受け取って一緒に屋外に出ると、移動中にはぬるかった風が妙に涼しく感じた。岩を組んで作られた湯船は屋内とは違った趣があり、人工の小さな滝の上からお湯が湧き出している。どういう仕組みなのか気になったけど、岩を登って近くに寄るにはあまりにも装備が心許ない。


「ホントに観光客用の施設って感じだなー!」


 ユルヤナもお気に召したらしい。早速浸かってすいすいと奥まで泳いでいくのを眺めていた時だった。出入り口付近がにわかに騒がしくなり、


「隊長たちも今入ってるとこー?」


 ルカを筆頭に、【第四】の三人が顔を覗かせた。


「せんぱぁい!」

「バッ、走るな!」


 時既に遅し、こちらに真っ直ぐ走ってきたトーマが、少しとろみのある湯が溢れて滑る床で案の定転んだ。

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