第15話 夢
目の前に広がる血だまりとむせ返る生臭さ。とっくに慣れてしまったはずの臭いに吐き気がこみ上げてくる。足元に横たわる深緑の隊服は腹部がどす黒く染まっていて、げほっと咳き込んだ口から吐き出された血が白い首を汚した。僕は慌てて治癒魔法を掛けようと手をかざすが、その腕を彼女は血塗れの手で弱々しく掴む。そのあまりの冷たさに僕のほうが震えた。
「……いくらアンタでも無理だから。それよりも温存して」
「そんなこと言うな! 絶対に助けるから」
僕は構わず治癒魔法を発動した。でも彼女の傷は全く塞がらない。血を流しすぎていることはわかっていた。それでも何かせずにはいられなかった。
「いいから。たまには年上の言うことを聞け」
「うるさい! 僕のほうが上司だろ!」
すると彼女はいよいよ呼吸すら覚束なくなりながら言う。
「……声、出ないから耳貸して。とっても大切なことを伝え忘れてた」
「何?」
僕は急いで彼女を抱き起こし、口元に耳を寄せた。するとほとんど吐息だけの掠れた声で囁く。
「ツクモ、大好き。……ごめんね」
もうそんな力は残っていなかったはずなのに、彼女は僕の首に腕を巻き付けるようにして一瞬だけ体を起こす。頬に柔らかいものが触れた。彼女がいつも【二つ星】とからかうホクロを彼女自身の血が隠したのがわかった。
驚いている僕を見て満足げに微笑む彼女は目を閉じて、力が抜けた腕が離れる様が妙に遅く感じて――それから二度と動くことはなかった。
***
身体が重い。喉が渇く。倒れた後は毎回そうだ。近くで誰かが話す声がして、意識がはっきりしてくると共に聞き取れるようになった。
「――それから先輩、率先して掃討系の作戦に参加するようになって。いつも血みどろで帰ってくるんです。まあ、全部返り血なんですけど」
首すら動かせないので天井しか見えないけど、トーマがユルヤナに現役時代の僕の話をしているらしい。急に僕が倒れてユルヤナも驚いただろうから、自分で話したらまた倒れそうな僕の代わりに説明してくれるのは助かる。でもトーマの説明だとなんだか武勇伝みたいに聞こえて嫌だ。
「亡くなった先輩の仇を探してたってこと?」
「それもあったのかもしれませんけど……。どっちかっていうと、死に場所を探してるみたいでした。優秀だったから出動要請はいっぱい来るし、本人が行くって言ったら俺たちには止められなくて」
いろんな人から心配されているのは知っていた。それでも何かしていないとおかしくなりそうだった。
「それで大活躍した結果が【二つ星の悪魔】かあ」
「自分たちのほうがよっぽど悪魔みたいなことしてたくせによく言いますよ」
人身売買とか、人体実験とか、他国との戦争を企てていたとか。ユルヤナには詳細が話せないことばかりだ。
「結局、ユルヤナさんの言うとおり仇を見つけて、そのバックに付いてた組織をほとんど一人で壊滅させた帰り道に、突然倒れたんですけどね」
その頃のことはあまり記憶にない。最後の任務の後、目を覚ましたら二日経っていたことは一応覚えている。
ひととおり話を聞き終わったユルヤナは、深々とため息をついた。
「それからずっとこんな調子? 発作があるんなら先に言っておいてよね」
「仕方ないだろ、最近は大丈夫だったんだから」
ようやく声が出るようになって会話に口を挟むと、即座に反応したトーマが椅子を吹き飛ばす勢いで立ち上がり、
「せんぱぁい!」
「止まれ!」
まだ動けない僕に覆い被さりかけたところでユルヤナに命令され、ビタッと止まった。
「僕の声じゃなくても止まるのか……」
おかげで寝起きに筋肉に轢かれることは免れたけど、元隊長として若干複雑な気持ちだった。何ならトーマ自身も困惑している。
「なんか止まらないといけない気がして」
「うん、えらいえらい」
扱いがいよいよ犬だ。ただし立ち上がったトーマの頭にユルヤナの手が届くわけがないので、撫でるのは背中だった。
「水飲む?」
「うん」
まだ冷えと痺れが残っているもののなんとか手足も動かせるようになって、トーマに支えられながら身体を起こすと、常温の水が入ったコップが差し出される。迷惑をかけたのに至れり尽くせりだ。
「それだけ酷かったなら、軍医も診てくれたでしょ。睡眠薬くらいもらえなかったの?」
「最初は多少効いてたんだけど、だんだん効かなくなって」
「ああ……」
魔導薬は高いので使いたければ実費になると言われて諦めた。ユルヤナはでしょうねと言いたげに項垂れる。
取り落とさないように両手でコップを持ち、慎重に口の中を潤していると、トーマは僕の背中をゆっくりさすりながら言った。
「先輩が辞めちゃった時は、なんで引き留めなかったってあっちこっちから怒られたんですよ、俺たち」
「え? あれは辞めろっていう流れだっただろ?」
「まさか! 本当に休んでほしかっただけですよ。前線にも出るし機械の整備もするしで、明らかに働き過ぎだったから」
それを聞いて、ユルヤナは肩をすくめた。
「そんなことだろうと思った。いつでも人手不足の軍が、なり手の少ない魔導士をそう簡単に手放すわけないもん」
みんなして呆れた様子で休め休めと言うから、てっきり出しゃばりすぎた士官なりたてを煙たがって厄介払いしようとしているとか、そういうことだと思っていたのに。
「でも後悔してるんです。俺たちずっと、先輩に頼りすぎだったって」
「別に。やりたくてやってたことだから」
できることを認めてもらえるのも頼られるのも嫌いじゃなかった。ただ、あの時もっと上手くやれたんじゃないか、彼女が死ななくていい方法があったんじゃないかと、ぐるぐる考え続けていたら倒れていただけだ。トーマたちが悪いわけじゃない。
「正直、戻ってきてくれないかなって思ってましたけど、今の状態を見たら言えないなあ……」
コップの水が空になるのを確認すると、トーマは立ち上がった。
「これからは先輩がやりたいこと、応援します」
「え……」
「ここ、前に話してくれたお祖父さんの雑貨店なんですよね。継ぎたかったって言ってたじゃないですか」
「そうそう! おれもこの前から言ってるんだよ」
すかさずユルヤナが乗ってきた。貴様は店に自分の商品を置いてほしいだけだろうが。
「やればいいんですよ。もう誰にも命令されずに好きなことができるんだから」
僕は自分で何かを決めるのが本当に苦手だ。あっさり無責任に言われるだけでも、すぐにその気になって流されそうになる。
「先輩がお店開いたら、みんな喜んで買いにきますよ」
「倒れてもおれが店番してやるから安心して」
屈強な男どもが入り浸ったら店が狭くなりそうだ。でももしそんな未来が叶うならきっと楽しいだろう。
「……検討するよ」
「よし!」
僕がものすごく曖昧に前向きな意思を表明すると、ユルヤナはもう決定したかのような嬉しそうな顔でぐっと拳を握った。
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