第10話 モーニング

 不意に何かが近づいてくる気配がして、僕は反射的にそれを掴んだ。


「おっ、さすが元軍人。反応が早い」


 目を開けると銀髪の美少女が僕の顔を覗き込んだ姿勢で目を丸くしていて、僕が掴んだのはその右手首だった。


「おはよう、ツクモ」


 美少女顔に似合わない悪そうな表情でにやりと笑う男を見て、そういえば居候が増えたのだったと昨日の出来事を思い出す。


「……おはよう、ユルヤナ」

「手離してくれない? 力強いなおまえ」


 ユルヤナはカリカリと引っ掻くようにして僕の指を外そうとするが、寝起きで大して力を込めていないのに一本も剥がせていない。


「ほっそ」


 出会った時から細い細いとは思っていたものの改めて掴んでみると思った以上に細く、思わず口に出してしまった。


「うるさい。ツクモよりはよっぽど健康に気を遣ってますう」


 僕を起こすために肩に触れようとしたところだったようだ。離した手首をさも痛そうにさすりながら口を尖らせている。緩慢に身体を起こして目を擦っていると、ユルヤナは壁に掛かっている時計を見てふふんと得意げに鼻を鳴らした。


「八時間ジャスト。さすがおれ」

「? ああ、薬の効果時間か……」

「そう、効果が切れる時間を魔法で調整したんだ」

「そんなこともできるんだ」


 それが普通の薬と魔導薬の違いだとか、こんなに正確に調整できる奴は少ないとか、朝から聞くには重めの詳しい解説を聞き流しつつベッドから降りて身体を解す。


「寝心地はどうだった? うなされたりはしてなさそうだったけど」

「……確かに。久しぶりにゆっくり眠れた」


 夜中に起きることも悪夢を見ることもなく、朝まで連続して眠れたのはいつぶりだろうか。おかげでずいぶん頭がすっきりしている。


「助かったよ、ありがとう」


 素直に礼を言うとユルヤナはぎょっとした顔で固まり、


「どういたしまして?」


 若干目を泳がせながらそわそわと答えた。こういう性格だから礼を言われ慣れていないのかもしれない。かわいそうに。

 生温い視線を送っていると、ユルヤナは僕が何を考えているのか察したようで悔しそうに睨みつけてきた。


「それより、睡眠薬は根本的な解決策じゃないんだから。まずは朝日を浴びてきちんと栄養摂って、まともな時間に寝る! そのための補助だってことを忘れるなよ」

「わかってる」


 そう、結局は僕がしっかりしなければいけないのだ。終わったことをいつまでも引きずらず、きちんと折り合いを付けられるようにならなければ。などと考え込みそうになったところで、


「というわけで、朝から開いてる良い店って食堂以外にある? その後に買い物もしたい」


 ユルヤナはあっさりと話題を変えた。今更気付いたが彼は既に身支度を終えている。昨日と違ってパンツスタイルではあるものの、やはりわざと女性だと誤解させるような服装だ。


「昨日散々買っておいて、まだ買うんだ」

「薬の材料の買い足しだよ。師匠の知り合いの店が白レンガ通りってとこにあるらしいんだけど」


 白レンガ通りといえば、僕が住んでいたワンルームの部屋があった場所――つまりカナエさんの喫茶店がある通りだ。もう一週間顔を出していないし、またモーニングを食べに行くのもいいかもしれない。カナエさんも常連が増えるのは喜ぶだろう。たぶんユルヤナは、ルカよりは安全だ。


***


 喫茶店のドアを開けると聞き慣れたベルの音と共にカナエさんが振り返り、僕の顔を見るなりパッと顔を明るくした。


「おはよう、ツクモさん。今日もモーニングでいいですか?」


 変わらない対応が身に染みる。しかし今日は僕の方が今までと違うオーダーをすることになる。


「おはようございます。あの、二ついいですか?」

「おはようございます、はじめまして!」


 またしても絶妙な角度で僕の背後からひょこっと顔を出したユルヤナを見て、カナエさんは固まった。



 

「びっくりしました。ツクモさんの彼女さんかと思って」


 二人分のモーニングセットを運んできたカナエさんは、ユルヤナにネタばらしをされるとまずは驚き、それから心底ほっとした様子でくすくすと笑った。そんなに彼女がいなさそうなツラだろうか。


「こういうやかましいタイプはちょっと」

「ツクモがテンション低すぎるだけだって」


 猫を数匹剥がしたユルヤナは頬杖を突き、テーブルに備え付けられた角砂糖のポットを手持ち無沙汰に開けて覗いている。


「はい、お待たせしました。さすがに今日は作り始めてなかったので」


 運ばれてきたトーストに手をつけようとして、僕は思わず顔を上げる。


「……まさかいつも先に用意してくれてたんですか」

「ええ、毎日同じ時間に同じオーダーでしたから。早く提供できた方がいいでしょう?」

「ありがとうございます……」


 気遣いに感動していると、奥の席で新聞を広げていた中年男性が不意に口を挟んだ。


「カナエちゃん、ツクモさんが引っ越した次の日もうっかり作っちゃって、自分で食べてたもんねえ」


 ひひひっと肩を揺らす男は常連客などではなく、実はこの店のマスターだ。暇な時はカナエさんに店を任せてほっつき歩いているせいで、常連たちから『カナエちゃんの喫茶店』と言われてしまっているが、本人もあまり気にしていない。


「言わないでくださいよ!」


 カナエさんが慌てる。


「そうだったんですか。……なんか、すみません」

「謝らないでください、私が勝手にやってたことなんですから。でも、また来てくれて嬉しいです」


 急に引っ越したせいで迷惑をかけてしまったと恐縮していると、カナエさんはお盆で顔を隠しながらぼそぼそと言った。


「え?」

「ツクモさん、いつも暗い顔して黙々と食べてるから、本当は美味しくないけど一番近い店で一番安いセットを頼んでるだけなんじゃないかってマスターが言うんですもん」

「そういうわけじゃ……」


 こんなに心配してくれていたとは。今更でも伝えておくべきかと、僕は少しためらってから答えた。


「僕、味がわからないんです。匂いはわかるから、美味しそうだとは思ってるんですけど」

「え! そうだったんですか」


 するとマスターも目を丸くした。


「そいつは難儀だね。何かの病気?」

「心因性だって医者には言われました。……仕事を辞めても治らないので、諦めてます」

「なるほどなあ。まあ、不味いんじゃなくてよかったな、カナエちゃん」

「はい!」


 本当にほっとしているようだった。常連だったとはいえ安いメニューしか頼まない客の好みに一喜一憂するとは、彼女も本当にお人好しだ。


「ふーん、なるほど」


 マコちゃん相手の時とは違い、黙ってもふもふとトーストを囓っていたユルヤナが僕とカナエさんのやり取りを聞きながら小さく呟いた。


「何が?」

「別にぃ? カナエさん、ちゃんと美味しいから安心してね」

「ふふ、ありがとうございます」


 二人の間で何か通じた雰囲気があるのがなんだか悔しい。早く味覚が戻らないだろうか。

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