第76話  父が最後に吐いた言葉なき言葉

 死の床に付く前、父は国際電話の電話口で真奈美の声を聞いて静かにむせび泣いた。真奈美が何を言ってもただただ父の抑えるような低いすすり泣きの声が聞こえるだけだった。


 真奈美は電話を切るにも切れず永遠に父の泣き声を聞き続けていた。

 

 ずっと長い間気持ちを心の奥に抱えて堪えていた父が、最後ついに堪えきれずに全てを吐き出して泣いた声。それは今でも真奈美の脳裏で響き渡り真奈美を放さない。


 その電話を切った後の父の日記にはこう書いてあった。

「太平洋のかなたに最愛の娘をやったことは、親のエゴイズムからいえば大失敗だった。やはり娘は、いつでも自分の手の届くところに置いておくべきだった」


 人生とは、常にネガな感情を自分の中から一つ一つ取り除いて行って、どこかに心の平穏を見つけていくことなのだろう。


 感心できないこと、心配なことを、敢えてそれらに関わっている相手に指摘して言う必要はないと真奈美は思った。なぜなら、当の本人がそれに自分で気が付かない限り、何も変わりはしないからだ。


 テイトが営業を担当していた会社の工場が低コストの国に移ってしまって、その結果、彼が営業の仕事を失ったことがあった。真奈美の通訳としての収入だけに頼っての生活が続いた。プレッシャーが強くてめげそうになる真奈美はその感情を夫に見せないようにした。家に入る前に車の中で思いっきり泣くことでその感情を処理し、夫には明るい顔を見せて頑張った。必死で仕事探しをしている夫にとって、泣いている妻の姿を見ることがどれほど辛いことかを察することができたからだ。これも他ならぬ父の日記を読むことで実行できたことだった。


 真奈美は両親の複雑な立場や彼らの心の奥にあった戦争の傷跡など何も知らず、なんの心配もなくぬくぬくと育った。大人になってからも心の病気で悩んでいる人々の多くが、子供時代の複雑な環境から来る傷口から溢れ出ている毒が原因で問題が起きていると聞く度に、子供を巻き添えにしなかった自分の両親の賢明さに感謝する。


 子供たちは人間ドラマの悲しさや苦しさを理解するにはあまりにも未熟過ぎる。必要な躾の上に愛を十分に受けて育った子は、ほろ苦い豊かな愛を栄養剤として強さをも育んでいける。


 それだけに、そう言った子供は心に余裕があるだけに、自分自身や周囲の人々に極力愛に満ちた優しい言葉だけをかけてあげられる。それこそが真の人間愛だ。生命に意味をもたらすのは愛以外の何物でもない。


 父の日記から真奈美が学んだ尊い教えだった。


 今、真奈美も少しずつ老いてきている。父が残した老いに関する言葉。

「年を取ると、見た目が次第に醜くなっていく。それはもうどうしようもないことだ。ただ一つ自分で努力して向上できるのは人間性だけだ」


 実に意を得た言葉である。


To be continued...

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