第57話 対決
真奈美は日本からの帰りの飛行機の機内での12時間をトロイへの最後の手紙を書くことに費やそうと決心した。
「親愛なるトロイへ、
あなたにこの手紙を書こうと長い間思い続けていました。これから私が行おうとしていることは、恐らく私の人生の中でもっとも困難なこととなるでしょう。でも、もうここまで来ては、実行する以外に道はないのです。
「あなたは私に女としてではなく、一人の人間として生きるようにと言ってくれた初めての男性でした。この言葉は、日本のように男であることや女であることを強く意識する国から来た者にとってとても新鮮に聞こえました。その瞬間私はあなたに恋をし、あなたこそ私を幸せにしてくれる人だと信じました。
私は日本で特に不幸せな女の子であったわけでも何でもなかったのですが、あなたの妻になれば、幸せな気持ちが倍増するだろうと夢に見ていました。あなたを尊敬し、崇拝しました。また、お父様の死で苦しんでいたあなたを幸せにするためにはどんなことでもしようと決意し故国を後にしました。
ですから、あなたと結婚したときには、私たちの新しい生活がとても楽しみで、何も気になりもせず、二人がとても貧乏であったことさえ楽しいぐらいでした。覚えていますか?あの頃のことを。
しかし、しばらくすると、私はあなたが何者かに対していつも怒りを持っているということに気が付きました。あの頃の私にはアメリカで頼れる人といったらあなたしかいなかったため、あなたになんとか機嫌を直してもらおうと必死でした。とにかく、あなたが全ての世界だったのです。あなたの怒りがどんな問題を含んでいたかなんてことは何も理解していなかったのです。と言うより、あなたに問題があったなどということすら認識できていませんでした。
ですから、あなたに明るくなってもらおうとそれだけを願って、必要のなかった時でさえ私はただただ自分の行為だけを省みて、日本式な反省を繰り返し、ひたすらあなたに謝り続けていました。そして、我々の結婚はそのパターンをベースに進んでいきました。
もちろん、あなたの怒りが治まっていたときには楽しいこともありました。私は極力私の結婚に対する不満を不満として感じないように努めました。なぜなら、もし、私が自分に正直になったとしたら、この結婚がすぐに壊れてしまうだろうことを直感していて怖かったのです。
更に、私は失敗者となって日本に帰りたくなかったのです。
きっといつの日かあなたと幸せをつかんでみせると心に決めていたのです。ですから、私は時折起きるあなたの怒りに包まれた態度にさえ耐えることができたのです。
そうすることで、私はこの結婚が失敗ではないと確信し、あなたの子供を身篭りました。ジュリアンとの幸せな日々が続いたかと思うと、また、あなたの笑顔の下からあの憎らしい怒りが顔を出しました。
あの頃最も恐ろしかったことは、いつ何どきあなたの笑顔が消えてしまうのかの予想がつかなかったことです。予想もつかず、またどこから怒りが来るのかも分からず、私はいつも戸惑うばかりでした。
しかも、あなた自身も何度か認めた様に、私とは何の関係もないところで怒りが起きていたため、いくら私が日本的な自己反省を繰り返し、自分の言動に気を付けても何の効果も得られませんでした。それどころが、私が反省して謝れば謝るほどあなたの怒りはエスカレートしていくばかりでした。それはまさにどうしようもなく肥大したモンスターのようなものでした。
そのうちに、わずかばかりあった希望も消えて、私はあなたからただ逃れたいと思うようになりました。まだあなたの妻であったにも関わらず、私の心は次第にあなたから離れて行きました。
でも、あの頃の私にはどこへ行くべきかさえ見当もつきませんでした。小さな子供を連れて外国でどうやって生活すれば良いのかもまだ分かりませんでした。結局、自分の気持ちを殺してそのまま生活を続けるより他には考えつきませんでした。
絵描きだった私にはたいした生活力もありませんでした。あのときほど仕事がしたいと思ったことはありませんでした。自分の人生を変えてくれるものはもうお金しかないと悟ったからなのです。
あなたが博士号を取ろうともがいていたとき、あなたの怒りは頂点に達しました。でも、このアメリカで私の苦しみを聞いてくれるような人は、あの頃あなたのお母様ぐらいしかいなかったのです。彼女はもうすでに私たちの間で何かが起こりつつあると感じていたようです。彼女はあなたの母親であったにも拘わらず、とてつもなく公平な態度に徹して、私が自分の人生を変えるのか、そのまま続けていくのか、全て私次第であるとおっしゃいました。そして、また、私の結論がどちらになろうと私の助けになってくれるとまで約束して下さいました。本当に立派な方でした。
私は心の中であのとき結論を出しましたが、幼いジュリアンの顔を見た途端、実行の時期を延ばそうと思い直しました。せめて、ジュリアンが大学へ行くぐらいまではと・・・。
あなたに対する同情のような気持ちもまだまだ残っていました。だから、それらの気持ちにすがって生活を続けました。でも、もうあなたに対する情熱のようなものはすっかり消え去っていました。
そんな中で、ある男性と知り合いになりました。彼は私のことをじっと静かに見つめてくれていた人でした。そしてある日、愛を告白されました。はっきりと一度はお断りしたのですが、いつの日か私もその人を愛するようになってしまったのです。もう私は自分が自分でないような、何がなんだか分からない気持ちに陥ってしまいました。ここまで頭の中が滅茶苦茶になってしまって、このままあなたの奥さんでいる資格など私にはありません。
4年前一度私が家を飛び出して、あなたが迎えに来たことがありましたね。あのときからあなたはあの憎き怒りを抑えようと努力を始めました。でも、あなたの中のモンスターはあなたや私が思っていたよりももっともっと凄い曲者だったようです。あなたのモンスターさえいなくなってくれれば、あなたは誠実で真面目な人なのですが・・・。
いろいろと考えているうちにある一つのことが明確になってきました。あなたからあの憎きモンスターを完全に追い出すには、あなたの前から私が消える必要があるということ。それしか解決法はないということにある日ハタと気が付きました。あなたは許すだけの私にすっかり甘えてしまっているのです。私ならどんなことをしても必ず許してくれると信じているのです。あなたはそれが愛だと信じているのです。それではいくら頑張ってもあなたからモンスターが出て行くわけがありません。
ジュリアンが大学に行くぐらいまで待ってしまうと、ジュリアンが去って、私まで去って行ったら、あなたはきっとショックで倒れてしまうかもしれません。まだジュリアンが子供のうちなら、あなたもジュリアンのためになんとか正気を保つでしょう。ですから、今のうちに私が家を出て行く方があなたにもやり直しがきくのではないかと結論しました。
ジュリアンの父親として気をしっかりと持ち、あなたが甘えることをしない誰か別の新しい人と新たな人生を歩んで下さい 私は遠くであなたをジュリアンの父親として見守っているつもりです。
さようなら。 真奈美」
何度も何度も書き換えながらの長い手紙を書き終えて飛行機の窓から外を覗くと、20年前に上空で見たあの時と同じデトロイトのナイト・ビューがキラキラと円を描いて真奈美を待っていた。
戦いはこれからだ!
デトロイトに到着すると、税関で手こずって真奈美の帰宅が遅れたことに対する不満に始まって、いつも通りトロイの怒りの連続が真奈美を待ち構えていた。
すでにこの結婚の終結は明確に表れていた。これ以上偽りの生活を延長して何の意味があるというのだろう?あれが気に入らないこれが気に入らないとだだっ子の様にぐずるトロイに正面から向かって事実を語る時が到来した。
真奈美は飛行機の中で書き終えた手紙をトロイに手渡してから言った。真奈美も少し興奮気味だった。
ここで語れるのは自分の犯した罪だけにすべきだ。彼のことをとやかく言っては事が複雑になるだけだ。彼の行為は、彼自身が自分で向き合うべき問題だ。自分には関係ない。反省精神の基本だ。
「トロイ、よく聞いて頂戴。私たちの結婚はもう終わりです。なぜなら、私には別に好きな人ができてしまったのです。そんな女となってしまった私には、もうこれ以上あなたの奥さんでいる資格などないのです。」
「嘘だ、嘘だ!そんなことは嘘に決まっている。」
「トロイ、嘘じゃないの。本当なの・・・。」
次の瞬間、真奈美の顔にはべっとりと唾が吐きかけられていた。
To be continued...
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