第56話 一時帰国

 まず、1週間休みを取って日本に帰って来ることを考えた。真奈美は、トロイと対決する前に日本で頭を冷やして来るのもいいかもしれないと思った。


 日本に帰ってみると、父も母もいつの間にか年老いていた。何も知らない親たち。今頃真奈美がトロイとの離婚を考えているなどと知ったらさぞや驚くことだろう。父と母にはもうしばらく黙っていることにした。


 学生時代からの親友、美佐子に打ち明けよう。彼女ならすぐ分かってくれるだろう。美佐子は真奈美とトロイの家にも何度か泊まりに来ていて、トロイと真奈美の性格の違いまで熟知していた。デトロイトでトロイの怒りの一面を目にして、真奈美の家の地下室で一緒にオイオイ泣いてくれたのも美佐子だった。


「真奈美はてっきりアメリカで幸せになっているとばかり思っていたよ。どうして?こんな遠いところまで来てどうして?」彼女の泣き声は激しい嗚咽となり変わり、真奈美を驚かしたものだった。


 渋谷の喫茶店で久しぶりに会った美佐子。彼女ももう結婚して何年か経っているのだが、昔と少しも変わっていない。ひょうきんな彼女は、短大時代と同じように帽子をかぶっている。

「真奈美、どうしたのよ。なんか元気ないじゃん?」

「あー、もう美佐子には見破られた・・・」


 さすが、20年来の親友だ。真奈美の顔を親以上に知っている。


「美佐子、私・・・今トロイとの離婚を考えているのよ」いきなり本題に入った。


 しかし、美佐子は「ついに来たか」という顔をしただけで、それほど驚いた様子は見せなかった。


 全てを一挙に話そうとする真奈美の話を「うん、うん」とうなずきながら聞いてくれた後、美佐子は、

「真奈美、トロイとは別れた方がいいわ。トロイと一緒にいると、真奈美のいいところが全部押さえつけられてしまって、真奈美が別の人間になってしまっているから、やっぱりそんな結婚は続けるべきではないよ。ジュリアンが可哀相だけれど、ジュリアンにも母親の本当の姿を見せなくっちゃ」


 美佐子はいとも簡単に結論を出したが、真奈美は美佐子の言っていることはもっともだと思った。


 結婚して以来、真奈美はいつもトロイの顔色を伺いながらビクビクと生活してきた。すっかり自分というものを失っていた。ジュリアンがそんな母親を誇りに思うわけがない。もちろん、母の真実を知ったジュリアンは驚いて真奈美をうんと恨むだろう。でも、時が経っていつの日か母を理解してくれる日も来ると信じたい。その日のためにも、真の自分に戻って強く生きなくてはならない。そう思うと、体の奥から底知れぬ勇気が涌いてきた。


 美佐子との再会の3日後、真奈美は父と外で昼食を共にした。若い頃ハンサムでいつも女性にもてていた父、その父にも老いは容赦なく訪れていた。父の顔を見ていると、今自分が考えていることを言わざるを得ないと感じた。アメリカに戻ってからでは、手紙か電話で伝えることになってしまう。やはり、こういう大事なことは面と向かって言っておきたい。


 父もまたあまり驚かなかった。親としてとても複雑な気持ちで聞いているようだったが、最後に一言、

「もう40近い大人の言うことだから、よく考えてのことだろう。後ろを向くな。前を見てしっかりと頑張れや。」とだけ言って、父が真奈美の意見を尊重する姿勢を見せてくれたことがこの上もなく嬉しいことだった。その後父は、何も聞かなかったかのようにごく普通に立ち上がって、


「さぁ、行こか?」と柔らかい関西弁で声をかけ、真奈美の肩を軽くポンと叩いてくれた。その軽さには、重苦しい過去をかき消すことによって初めて対面できる未来の明るさが感じられた。そのお陰か、父娘は、その日残った時間を一緒にいられる短くも貴重な時として十分に楽しむことができたのだった。

 

To be continued...

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