第54話 危機

 その翌日、真奈美は仕事の出先から上司に電話を入れた。

「あのー、ちょっと話したいことがあるのですが・・・」


「マナミ、話は後にして、すぐ家に電話を入れたまえ。君の義理のお母さんが大変らしい」

「大変って、どういうことですか?知っているのなら教えてください!」

「どうもお母さんは肺癌らしいよ」


 ただでさえ混乱していた真奈美の頭に、まるで突然大きな爆弾が落とされ、真奈美に「眼を覚ませ!」とでも言っているような気がした。


「あの母が癌になった?」


 この頃風邪が長引いて咳が止まらないとこぼしていた母。それが癌だったとは・・・。


 こんな大変なときに、真奈美は不倫をして夫に仕返しをしてやろうなどというとんでもないことを頭の中で考えていたなんてなんと不謹慎な!


 母の容態は思ったより進んでいた。すでに呼吸困難に陥っており、即抗がん剤投入が必要だという。X線で癌の元を退治しないと呼吸ができなくなる状態に陥っていたからだ。 


 そして、それからほんの数ヶ月後、トロイの母の死は真奈美達に心の準備をする時間すら与えないほど急速に訪れた。


 真奈美は、人間は本当に来る時が来れば死ぬという当たり前のことを改めて認識したのだった。


 あんなにいつも明るく元気で真奈美達の母として全家族をまとめてきた真奈美の尊敬すべき義理の母が、本当にこの世から消えてしまった。そんな馬鹿なことがあっていいのか・・・。信じられない。人の命とはこんなに儚いものだったのか。真奈美はただ唖然としてたたずんでいた。


 それと同時に、真奈美とトロイを形だけでも夫婦として残していた理由が、他ならぬあの母にあったということに少しずつ気付いていた。真奈美はあの母の娘であることが諦められずにトロイとの結婚をずるずると引きずっていたのかもしれない。

  

 何につけてもフェアーだったトロイの母が一度真奈美に言ってくれたことがあった。

「トロイは私の息子だけれど、マナミ、あまり日本的に我慢ばかりしていては駄目よ。自分の人生をどうするか、その選択はあなた次第よ」


 もちろん、過去に何度かトロイとの離婚を考えたことはあった。しかし、その度にジュリアンのつぶらな瞳を見て振り切ることができずにいた真奈美。しかし、わずかに繋いでいた糸がプチンプチンと切れ始めたことでこの結婚は形を変えながら、「なんとかしろ」と真奈美に回答を迫っていた。 


 自分だって、あの母のようにあっけなく明日死に絶えることだってあり得るのだ。もしそうなったとしたら、真奈美の人生なんてなんの意味があったのだろう?このまま全てを隠して幸せな振りを続け、トロイの支配下の基に意味のない結婚を続けていくことにどれほどの価値があるというのだろうか?


 また、ジュリアンが成長したときに、そんな情けない母を見てなんと思うだろうか?


 異国において一人でやっていくことは確かに怖い。しかし、今真奈美が続けている結婚に意味はない。生きていく上で何よりも大切なことは自分自身を尊敬できることだ。


今の真奈美は完全に自分を軽蔑している。

 

To be continued...

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