第31話 東京は恐ろしい所?

 トロイと年子の弟クリスは、顔こそはトロイと同じ様に可愛い顔をしていたが、トロイとまったく違った性格の持ち主だった。早くからカリフォルニアに住み移り、その積極的な性格が買われ、ビジネスマンとして成功していた。そのクリスがトロイと真奈美を訪ねて東京へやって来た。


 自信家のクリスは、いつものように大声を出して、いかにもアメリカ人らしい明るさで成田に降り立った。


 他のアメリカ人の旅行者たちがうごめく空港や成田エキスプレスの駅辺りではとても元気のよかったクリスだったが、真奈美の両親の住む山の手の住宅街に到着してからというもの、日本の環境にすっぽりと取り囲まれているうちに、彼の様子がだんだんおかしくなってきた。


 真奈美の母の作った夕食も、ほんの少しだけしか口にしないクリスを見て、真奈美の母は、もしかして日本の食べ物がクリスの口に合わなかったのではないかと心配した。


 夕食後、真奈美はすっかり元気のなくなったクリスを励まそうと近所の公園に連れ出した。


 公園のブランコに座って、真奈美は切り出した。

「私の母は、日本の食事が気に入らなかったのではないかと心配しているのよ。クリス、一体どうしちゃったの?」


「マナミ、君のお母さんの食事はとても美味しかったよ。問題はそんなことじゃないんだよ。マナミはカルチャーショックという言葉を知っているだろう?どうもそれらしいんだ。あまりにもすべてが僕の見慣れたアメリカと違っていて、それがすごいショックだったんだ。だって、実の兄のトロイまで、身振り手振りがいつの間にか日本人のようになってしまっているじゃないか・・・。


 町の中にはワーと人が沢山いるし、そこら中にビルや家が建て混んでいて、ほとんどオープンスペースがないという状態が・・・恥ずかしいのだけれど・・・急に恐ろしく思えてきて・・・そしたら、食欲までなくなってきてしまって・・・。もしかしたら、僕は狭所恐怖症なのかもしれない。」


 そういえば、満員電車が滑り込んできた渋谷の駅で、クリスは一緒にいた真奈美にアメリカ式レディーファーストを優雅に実行しようと、のんびりムードで真奈美に向かって、「どうぞ、お先に」という仕草をしていた。ところが、その途端、席を取ろうと必死で走ってきた日本の中年のおばさん連中にドーンと吹っ飛ばされて、彼は信じられないといった驚きの表情を見せていた。


 真奈美は、真奈美とトロイの結婚式で、父のジャニーズ・イングリッシュをせせら笑っていた自信家、クリスの姿を思い出していた。


 あのクリスが今、逆の異文化の中にあって、外国語を話すどころか、違った環境に恐怖を感じて食欲まで失くしてしまっている。なんと皮肉な事だろう。


 その瞬間、真奈美はあの時の父への侮辱的扱いの仕返しをしてやりたい衝動に駆られた。しかし、その思いは一瞬にして消え去った。そんなことをして何になるというのだ。自分のレベルをあのときのクリスのレベルへと下げる事になるだけではないか。


「今、自分の目の前であの自信家のクリスが恥を忍んで自分に真実を打ち明けてくれているのだ。助けてあげるのが義理の姉としての自分の役目というものだ。」


 そう思い直した真奈美は、クリスの手を握り締めて言った。

「クリス、心配することはないよ。誰でも外国では慣れないことだらけだよ。カルチャーショックという言葉もそういうところから生まれたわけよ。誰にでも起こりえることなのよ」


「マナミ、分かってくれて有難う。恥ずかしいから、どうか君の両親にだけは本当のことを言わないでおいて欲しい」


「分かった。分かった。うまいように言っておくわ」

 クリスは安心して微笑んだ。


 このとき真奈美は初めて義理の弟に親近感を覚えた。一時的な復讐の思いを捨てて良かったと思った。


 人にどんなひどいことをされても、自分まで同じ事をしてはいけない。真奈美は心からそう思った。


 そんなわけで、1週間の滞在予定で東京に来ていたクリスは、なんと3日でそそくさと日本から逃げ出して行ってしまった。


 真奈美の両親には、クリスのプライドを傷付けないように、彼の仕事の都合で早く帰国したとだけ伝えておいた。アメリカでは、よっぽど重要なポジションにある人でない限り、休暇中に仕事先から呼ばれて休暇を断念するなどということは稀なのだが、仕事一番の国、日本で生まれ育った両親には十分に納得できる理由だった。


 真奈美にとっては、あのクリスが自分に心を開いてくれたという事実が何よりも嬉しかった。


To be continued...

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