同時刻、連火家の屋敷。本館の奥の間には、連火の当主を影ながら支えてきた代々の顔料が舞の稽古をした部屋がある。


現場、稽古の間には扇子を片手に一振り一振り舞を覚える白彩の姿があった。


「そこはもう少し手を高く」


「はい」


舞の指南は焔。稽古の先生は女性だと思っていた白彩は最初意外に思えたが、彼の指導は優しく丁寧でわかりやすかった。


支乃森家では舞に限らず、様々な稽古で些細な間違いでも怒鳴られ、叔父にバレないよう傷ができない程度に叩かれていた。その上、おざなりな指導だった為、指南書を見ながら自主練しなければ、定期的に稽古の成果を拝見する叔父に落胆されること請け合いだった。


だから、焔のきめ細かな指導に白彩は感極まる。自分一人だったら、現在の過程を習得するのに十日を要した筈だったからだ。


「白彩様。本日はこれくらいにしましょう。今は昼どきですので、トキが昼餉を用意している筈です」


こうして当然のように御昼の用意もしてくれた。


トキも焔も、まだ正式な婚姻前の白彩を連火家の女主人として尊み接する。しかし、屋敷の使用人が全員そうという訳ではない。


洋館にトキと焔以外の使用人が立ち入ることがなかった為、白彩は今日初めて二人以外使用人と顔を合わせた。しかし、彼らは明らかに白彩を容認しておらず、遠巻きに彼女を奇異の眼で眺める。


しかし、支乃森家の使用人比べるとまだ良い方だからと、白彩はあまり気にしていなかった。なぜなら、当主が屋敷に居ないときを見計らって使用人は、彼が座敷牢に配膳するよう命じてた昼餉を勝手に食し、代わりに残飯を無言で渡されていた。白彩が叔父に告発しないのを良いことに、ときには一日に一回しか食事を与えられなかった。


トキが用意してくれた食事を没収されないだけで白彩には好待遇だった。それに、自分以上に、トキと他の使用人の距離感の方が気になっている。


本館に入ってから、殆どの使用人が白彩と同等の目でトキを見ていた。いや、使用人からすれば白彩は一応仕えるべき人間である為、同じ使用人であるトキの扱いの方が酷いかもしれない。あまりトキと他の使用人が一緒に仕事をしている所を見たことが無く、白彩が想像しただけだが、十二分に有り得る。


しかし、あからさまなことをされているかわからない中、動く訳にもいかない。そもそも、白彩には使用人を指図する気概がない。


本来なら、次期当主の婚約者である白彩は使用人に命令する権利がある。煌龍が屋敷に居ない状況では、彼女を部外者として見ている使用人は言うことなど聞かないだろう。


だが、使用人間で問題が起きているのであれば、煌龍が対処しない筈がない。対策として、トキにはあまり他の使用人との接触が無い、洋館の仕事を任せているのかもしれない。


何故、トキが同じ使用人に爪弾きにされているのか白彩は気になるが、恐らく込み入った事情であり、深入りして良いことではないからと気にしないことにした。


だが、その事情は直ぐにわかることとなる。




午後は、自室で歌の練習。白彩は母と違って舞も好きだが、歌は自信への慰めに歌うことが多かった。


内心、叔父である草一郎は怖くて、快く思えない存在だった。しかし、彼の肩には色国の安寧が乗っていた。


当然、草一郎の顔料である白彩にも、同党の責任があった。彼女は舞うとき、国の平和を願い、少しでも多くの人が救われるよう祈っている。


しかし、自身を慰めたいときもある。そんなとき、彼女は歌う。幼き日、引き離されて舞は見れなかったが、支乃森の屋敷に渡っていた母の歌声をなぞって。


舞も歌も、白彩にとって大切なものであることには違いない。しかし、舞は誰かを想って踊るもの、歌は母を想って紡ぐものだった。


でも、今は翡翠ではなく、近い将来義母ははとなる人を惟み歌う。



―煌龍様の御母様は、一体どんな人だったのかしら。—


―歌詞から、周りの人の心を照らしたい心根が感じられた。—


―きっと、当主を支える妻としても、顔料としても、立派な方に違いないわ。—


―未だ、煌龍様に舞を求められないわたくしとは違って……—



歌から推し測った人物像と、自身との差に悲観する白彩。


そんな中、室内にトキが入ってきた。


「白彩様。御茶と御菓子をお持ちしました」


「いつもありがとうございます」


このように午後の三時頃、トキはお茶請けを持ってきてくれる。


御茶は玉露、御菓子は老舗和菓子店の品。支乃森家で出されていたのよりずっと高級品な為、当然美味しい。


支乃森の家とは違いある程度の自由を尊重されている上、気遣われている。白彩には分不相応と思える程有り難かったが、寂しいという部分は支乃森と変わらない。


煌龍が不在のときは、白彩一人で食べる。殿方と二人きりなのも緊張するが、以前と変わらない寂寞な食事の時間に白彩は、住処が変わろうとも自分は永遠に孤独なんだろ思い知らされている。


「あの?もしよろしければ。御茶、御一緒させていただいてもよろしいでしょうか」


白彩の心寂しさを察したのか、トキがそんな申し出をしてきた。


断る訳がなく、白彩は喜んでトキと御茶を共にした。


「この羊羹。以前にも御茶請けとして出されていましたが、とても美味しいです」


「白彩様に気に入っていただけて良かった。『百花ひゃっか』という連火家が贔屓にしている老舗の店で、餡子の菓子が他とは一味違うんです」


「それは、白餡もあったりするのでしょうか」


餡子を使用した菓子は好きだが、どちらかと言えば白彩は上品に甘くあっさりとした白餡の方を好んでいる。


餡子の味が一味違うと聞かされつい尋ねてしまい、我に返る。



―些末な質問をしてしまった……—



支乃森家では、重要でないこと以外の疑問を呈することは許されなかった。物心が付いたばかりの白彩は、一度その日の菓子は何なのか尋ねたが、使用人は渋い顔をして菓子の乗った皿をカタンと大きく音が鳴るように置いた。


トキは流石に、陶器を割りかねない程強く机に置くような諷刺はしないだろう。しかし、溜息の一つくらいは吐くだろうと白彩は緊張し冷汗が出る。


しかし、トキは「えぇ。御饅頭は勿論のこと、白餡の羊羹もあるんですよ。味も然ることながら、煉切は花などの意匠が多く、今の時期なら桜や菜の花などが売られています。もう少しすれば、藤や皐月の花のなども店頭に並ぶ筈ですので、後日買ってきましょうか」などと嫌な顔一つせず、寧ろ白彩の質問に答えてくれる。そればかりか、推奨品まで教えてくれた。


この屋敷に住むようになった翌日、抱いた疑問を尋ねてしまい謝罪したが、トキは気にしないでと言った。先程も昵懇の仲のようにしゃべりかけてくれた。


それからも親しみの籠った言葉に釣られ、白彩は気に病むこともなく普通に会話ができるようになった。最初、和菓子屋のことを尋ねたのも、トキの親しみやすさに誘因されたからかもしれない。




翌日の同じ時間。トキと御茶を啜りながら、連火家のことや彩都のことなどを聞かされる。


屋敷のことも、彩都のことも。何一つ知らない白彩には、どの話しも興味深く、為になるものだった。


「この洋館自体、亡くなられた奥様の為に建てられた屋敷なんです」


「煌龍様の御母様の為に……」


「はい。でも、つい最近まであまり使われていなくて、あの頃の暖かな屋敷の面影は消え受けていました。だから、白彩様が洋館の、しかも奥様が使われていた部屋に住まわれて、私は嬉しかったんですよ。あの頃に少し戻ったような気がして」


「……」


側に一人でも白彩自身を肯定してくれる存在がいるだけで、どれほど心強いのか白彩は思い出す。



―わたくしがこの屋敷に来て喜ぶ人がいるなんて、思いましなかった……—


―少し恥ずかしいけれど。誰かと会話して、こんな心地良いのはいつ振りかしら……—


トキの言葉に気恥ずかしさを感じながらも、何気ない会話に快然と笑みを浮かべる。


支乃森家では座敷牢に入れられ、会話をできる状況になかった。定期的に使用人や御稽古ごとの先生と事務的なやり取りくらい。鸚緑が人目を盗んで来ては鉄格子越しに話しをしたが、屋敷の人間特に柢根に見られる訳にはいかない為、短時間に軽く言葉を交わす程度。会話らしい会話はあまり記憶にない。


例外は叔父の草一郎が頻繁に訪ねに来ていたが、翡翠として一方的に語りかける。彼の艶めかしい視線に怯え、白彩はまともにしゃべることもできなかった。


母が死去して以来忘れていた。他愛のない会話が、心にどれほどの平穏を与えてくれるのかを……


人心地付く感覚に浸っていると、トキが言葉を投げかけてきた。


「ところで、本日の舞の稽古は如何でしたか?」


「はい。火車さんの指導は的確で、まだ練習をはじめて二日目ですが、振り入れを一つ習得できそうなんです」


「まぁ!もうそんなに進んでいるのですね!」


「でも、舞の手順を一つ暗記しただけで、まだ細かな修正が必要ですが、わたくし一人なら更に数日のかかっていたと思います」



―だから、火車さんに舞を習って、本当に良かった。—



焔から学べることは多かった。連火の舞を教わる過程で、支乃森家で踊っていた舞の修正点も見えてきた。


焔のような親切な先生の指導を受けられて、白彩は感謝しかないかった。


「それは、それは。私も鼻高々です」


焔からの指導状況を話していると、トキは自分のことのように嬉しそうに笑う。ただの同僚である筈なのに、彼が指導者として優秀であることを欣喜雀躍していて、不思議に思えた。


怪訝そうな白彩に「実は、火車焔は私の夫なんです」と語るトキ。


連火家に関する新たな情報に白彩は驚く。


「そうだったのですか!」


「えぇ。元々、私は亡くなられた奥様の御実家桃咲家に仕えていた分家の出身でして、奥様が嫁ぐ際に私も伴い連火家に仕えることになりました」



―トキさんの瞳の色が桃色なのは、煌龍様の御母様の出生が桃色の眼の家系だったからなのね。—


―では……彼女が他の使用人から避けられているのは……—



屋敷内でトキの瞳だけ桃色である理由がわかるのと同時に、彼女が他の使用人から忌避される成因が垣間見えた。


それはトキ個人だけに留まらず、より大きな闇深い物語へと繋がる。



―桃咲という家の名前には覚えがあったけれど、まさかあの教科書に書かれていた家だったなんて……—


―亡くなられた煌龍様の御母様が使われたいた洋館に、多くの使用人が寄り付かないことから考えると……恐らく、煌龍様の御母様は……—



白彩は嫁いだ経緯だけでなく、煌龍の母も不当な扱いを受けていたという推測に至る。


だが、あくまで可能性の話し。しかし、それからの会話は、思い浮かんだ仮説が脳裏に過ってあまり覚えていない。




もう少しで夕餉の時間だが、まだ白彩は脳内の仮説に心を掻き乱されている。



―他人のあれこれを勝手に憶測するだなんて、不謹慎だわ。—


―しかも、相手は煌龍様の御母様……。いずれ、義母と成られる人。—


―でも、あれからずっと思い浮かんだ仮説が頭から抜けない……—



このように沈思黙考に陥り抜け出せないでいた。


だが、ある一声が彼女の意識を掬い上げる。


「浮かない顔をして、どうしたんだ?」


「こ、煌龍様……」


煌龍が帰宅してきた。昨晩は屯所に泊りがけだったので、顔を会わせるのは一日振りだった。


「……」


浮かぬ顔付きに疑問を抱かれ原因を聞かれた。しかし、貴方の御母様が強力過ぎる神通力を恐れられ不遇な思いをしたのではないかと気付きずっと考えていたなどと言える筈もなく、白彩は押し黙ってしまう。


屋敷の主人に対して失礼だとはわかっているが、人を欺くことが苦手な白彩に偽言など無理だった。


いつまでも何も話さない白彩に、呆れたのか煌龍は黙って部屋から出て行ってしまった。


自分の至らなぬ態度によって、煌龍の機嫌を損ねたのだと白彩は自省する。



―煌龍様に……何て失礼なことを……—


―嫌われたかもしれない……—



色深しの顔料として迎えられたのに、まだ煌龍に舞を要求されていない。そんな中で、問いかけを無視する無礼な振る舞いをした。最悪、屋敷を追い出される覚悟をする。


だが、ほんの僅かな時間で戻って来た煌龍。彼の手には紙袋が携われている。


「本当は夕食後に渡すつもりだったが、土産だ。受け取れ」


紙袋の中を覗くと、『百花』と書かれた箱が入っている。昨日、トキが言っていた和菓子屋の物だ。


「昨日、帰れなかったらな。その御詫びに帰りがけに買たんだけど、閉店間際でどら焼きくらいしか無くてな。一番人気の粒餡も売り切れて、中身は白餡なんだ。悪いな。一番美味しいのを買ってやれなくて」


白餡は唖然とする。嫌われたと思ったら、贈り物を与えられ、どら焼きの中身を理由に謝られている。以前、気にしていないことを謝罪をしても、相手を困惑させるだけだと言ったのは煌龍の方なのに。


自分へ御土産を買ってくれるだけで、充分嬉しかった。草一郎も何かしら白彩に贈り物をしていたが、彼女の趣味など考慮されていなかった。


その点、煌龍は白彩の好物がわからない中、少しでも喜んでくれる品を選ぼうと頭を捻らせていたのだろう。彼の言葉でそのことを理解した白彩は、煌龍の認識を少し改めた。



―『冷酷な炎』なんて言われているけど。煌龍は本来、とても親切な心根の持ち主なんだ。わたくしなどのことを考慮してくれる……—


―でも、上手く感情を言葉にできなくて、素っ気無い言葉を言ってしまう。それが、冷酷無慈悲と言われる原因になっているんだわ。—



菓子を渡される際の口調も素っ気無さ際立っていた。これまでも、気遣う素振りはあれど、言葉遣いに怯んでしまっていた。


だが、支乃森家で出会ってからかけられてきた言葉の数々。煌龍なりの最大限の配慮だったのだと白彩は痛感する。


「俺は自室に戻る。また夕食でな」


今も、突き放すような言葉選び。しかし、見方を変えると、以前までとは違い威圧感がなかった。


「待ってください」


白彩は部屋の扉に手をかけた煌龍を呼び止める。


「よろしければ、どらやき御一緒にいかがですか」


「……良いのか。俺と一緒になんて……」


「はい」


煌龍の本質が垣間見えて、白彩はもっと彼のことを知りたくなった。


夕食前だから、二人は一個ずつどら焼きを取り出す。どら焼きには花の焼印が押されていて洒落ている。


柔らかい生地と白い餡を一口入れた白彩は、美味しさのあまり溜息を吐く。


「美味しい……」


トキと同じ御店の白餡の御菓子を食べたが、そのときよりもずっと美味しく感じられた。


甘い菓子に舌鼓を打つ白彩を横から眺める煌龍は、彼女に気付かれない程僅かだが頬を緩ませる。



―喜んでくれて良かった……—



本日、煌龍が御土産を買ってきた発端は愛我から助言を受けたからだった。


『花嫁さん。ただでさえ屋敷に慣れてないのに、煌龍が一晩帰らなくて寂しいんじゃないの?』


御詫びに御菓子の一つでも買った方が良いと言われ、最初はチョコレートにするつもりだった。しかし、『また、叔母様の好み押し付けそうだよ』と苦言を呈されて、和菓子となった。


あまり商品が残っておらず、残っていたどら焼きにしたが、結果として白彩が喜んでいたほっとする。



―愛我には、感謝しないとな。—



後日、愛我にお礼をするから何か欲しい物はあるのかと尋ねるが、白彩に会ってみたいと言われるのは別の話し。

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