第三章
①
白彩が連火家に来て二週間。怪我の具合も良くなり、身体を動かすことにも支障はなくなった。
しかし、彼女は夜の庭先で舞って以来踊っていない。なぜなら、煌龍から舞を頼まれることがなかったからだった。
「では、行ってくる」
「本日も、色深しはよろしいのでしょうか」
「最近は、書類整理が優先だからな。舞を観る必要はない」
要求されないどころか、白彩の舞を観ないようにしているとさえ思える。しかし、他者に意見するなど、白彩にはできない。拒まれているのなら、了承する他ないのだ。
「わかりました。お気を付けください」
「あぁ。おまえもな。何かあれば、トキか焔を頼れ」
そう言って煌龍は、白彩の頭を撫でる。子ども扱いされているみたいだが、彼の瞳の奥で乏しく燃える炎は目の前の少女を思い悩み揺れていた。
「おまえは何も心配するな。俺が守ってやる」
煌龍が白彩を重んじているのは確かだが、未だ名前を呼んでくれない。自分はどうしてこの家に連れてこられたのか、白彩にはまったくわからなくなっていた。
加護してくれているが、舞を観ようとしない煌龍に必要とされていないように思え、白彩は疎外感を覚える。
書庫で彼女は一人寂しく本を読む。
外国書籍が多い中、棚の隅に和紙で装丁された書物が目立つ。取り出してみると、見た限り誰かによる手製の物のようだった。
内容が気なった白彩は表紙を捲る。するとそこには、歌が記されていた。
連火家に因んだ炎の歌。歌詞を観るだけで、この歌を考えた人の優しさや心情が手に取るようにわかる。
―何て、心温まる歌……—
淡く揺らめく火は世界を明るく照らし、白彩の心は温かい色に包み込む。
白彩が本の中の歌に心奪われていると、トキが書庫に入ってきた。同時に緑茶の香りもする。以前、好みのお茶を聞かれて、飲み慣れている緑茶と答えたからだろう。添えてある茶菓子も牡丹餅と緑茶に合いそうな組み合わせ。屋敷の趣向に合わせるなら紅茶だが、白彩の好みに合わせている。何気ないトキの気遣いに、お茶を啜る前から白彩は気持ちが和んでいた。
「少し、一休みしましょう。……あら、懐かしい」
トキは、白彩の膝元の本を見て、懐古する。
「こちら、昔奥様が作られた物なんです」
「やはり、そうでしたか」
連火家も歌を必要としないから、煌龍の母も歌は自ら考えていたのだろう。
「奥様は生前、この部屋で歌を考えておりました。旦那様やまだ幼き煌龍様に喜んでもらえるようにと」
「とても、お優しい方だったんですね」
白彩はトキが語る人物像に、当主のお内儀としても煌龍の母としても連火家の顔料としても素晴らしい人物だったのだと覚える。
―わたくしなどに、彼女の代わりが務まるのかしら……—
その一方で、前任者である煌龍の母と同等の務めを果たせるのか憂虞する。白彩は名家の女主人としての役割など知らない上、真っ当な顔料としての振る舞いもわからなかった。
彼女の中での色深しの顔料とは、自由と権利を剥奪され、他者とも接触も阻まれ、言われるがまま舞をする。それが、支乃森家で顔料となった者の扱いだった。
その為、煌龍の母と同様の身の処し方を求められてもできる自信がない。
だが……
―わたくしがこの歌と連火に伝わる舞をできるようになれば、煌龍様に少しでも必要とされるのでしょうか。―
必要とされないからと言って、袖手傍観する怯懦な娘ではなかった。支乃森家にいたときも自身や母を閉じ込める者たちの言うことなど聞きたくはない筈だが、名家の出身として教養は身に付けるべきだと進んで叔父が提示する御稽古に励み、外出不可な為常識不足になるのを補おうと読書で知識を学んだ。
支乃森白彩という娘は、成長意欲が人よりも高かった。
「トキさん。もしよろしければ、歌舞の稽古ができる場所を御借りできないでしょうか」
「私は構いませんが、稽古となりますと本館に行かなければなりません」
白彩は本館への立ち入りを控えるよう、煌龍から言われている。だから、トキが許諾する訳にはいかない。だから、後ほど煌龍に歎願することとなった。
連火の舞に関しては焔が指導してくれるそうで、稽古場の確保ができるまで歌の練習だけでもしよう白彩は自室に先程の書物を持ち込んだ。
「揺らめく明かりは、心を映す炎。
激しき猛火は激情。
馳せ廻る火の子は享楽。
淡い灯は哀傷。
心根で命の炎は揺れ動く」
心を反映する火の歌。優しい炎の歌詞を口ぐさむと白彩の心にも火が灯り、彼女の視界を明るく照らす。
―この歌を完璧に歌えるようになれば、煌龍様はわたくしのこと認めてくれるでしょうか……—
自身の未来に明るい色が差すと見据えが……
『色無しが調子に乗るな‼』
「ハッ……」
嘗て柢根が放った言葉を思い出し、歌が途切れる。成長意欲はあるが、叔母や支乃森家の使用人たちに言われた心無い言葉にその歩みを阻まれる。完全に足を止める訳ではないが、努力したところで結果は変わらないと思い込んでしまう。
「……胸に燃ゆるは、あの日の記憶」
しかし、白彩は歌の続きを歌う。努力しなければ、何もない自分には価値という言葉を与えられる資格すらないのだから。
白彩にとって努力することは、自分に価値を見出す手段、いやその前段階を手にする為の行為だった。
だが、それは無意味なのかもしれない。何故なら自分に価値を見出せない人間の努力は、他者に認められてはじめて報われるものだから。
いつになく早く帰宅したら煌龍と白彩は、はじめて一緒に夕食を食べていた。白彩が屋敷に来た日は、疲れて食事どころではなかった。
「……」
白彩は、本館に行き交いする許可をいただきたい旨を切り出せずにいた。昼間、脳裏に過った柢根の言葉を思い出すと、トキに願い出ると言ったときの意気込みは鳴りを潜めてしまう。
その上、誰かと食事を共にすることにすら緊張を覚えていた。座敷牢で食事をする際は一人又は叔父の側でお酌をしなければならなかった。草一郎と二人のときは、彼の卑陋な視線に怯えて食事どころではなかった。
煌龍が草一郎とは違うと白彩も理解している。しかし、殿方と二人切りの食事はどうしても落ち着かなかった。
これまで朝の食事はどうにかやり過ごせたが、それは食事の直後には煌龍が仕事に行ってしまう為その場だけやり過ごせば良かったからだった。
「さっきから押し黙って、どうかしたのか?」
「えっと……」
「言いたいことがあるなら言ってくれ」
白彩の心情を察して、煌龍は彼女の発言を促す。
色深しの顔料として連れてこられた以上、遅かれ早かれ連火の舞は習得しなければならない。いつまでも個人的な理由で遅疑逡巡していてはいけないと白彩は意を決する。
「連火の……ま、舞の稽古をしたく思っております。その為に、本館の一室を御借りできないでしょうか……」
「……それは、おまえがしたいからなのか?」
白彩の願い出が彼女の意志あるものなのか連火は問う。
「わたくしがしたいからというのは、一体どういうことなのでしょうか?」
しかし、質問の意図がわからず白彩は聞き返す。
「俺やこの家を気にしての発言ではないかと思ってな」
「それは……」
まったく気にしていない訳ではない。寧ろ、心の負担になっていた。
しかし、家のことを一番に考えなければならない立場にある煌龍が、連火の家よりも白彩を考慮する発言。彼女は益々困惑する。
だが、わからない答えに狼狽えている暇などない。白彩は自身の本音を正直に述べた。
「気にしていない訳ではありませんが、舞の習得は自分で望んでのことです。
本日、書庫で煌龍様の御母様が書いたと思わしき歌の譜面の見つけたのです。それを目にして、連火家に伝わる舞と一緒に歌いたいと思いました。
それに、わたくしが望まなくても、色深しの顔料として嫁入りする以上、必要なことではないでしょうか」
「……そうだな」
煌龍は白彩の主張を肯定するが、眉を顰める。白彩はそれを差し出がましい言葉を述べた自身に非があると捉えた。
「申し訳ありません。身のほど知らずな発言でした」
―主人出ある煌龍様に不快な思いをさせた。—
―これでは、御稽古なんて無理ね。最悪、この屋敷から追いだれるのかもしれない。—
先程の発言に陳謝しながら、この後の煌龍の返答を見越し、今後の自分の安否を悟る。
「別に、おまえの発言に対して表情を曇らせた訳ではない。俺の顔は元からこうだ。勘違いさせてすまない」
失望されたのは自分の方だと思っていた白彩は、煌龍から逆に謝罪を受けて酷く狼狽する。
これまで、白彩を憂慮する発言は多く見受けられた。しかし、この様にはっきり謝罪を受けるのは初めてのこと。彼の言動を脳内で処理しきれず、固まってしまう。
「稽古場は本館の奥の間を使え。但し、本館に立ち入る際はトキの同行が絶対だ。決して一人になることがないよう気を付けろ」
稽古場の件は一段落着き、食事を再開した。それから、二人は一切しゃべらなかった。
本館。煌龍は自室で、食事中の会話を思い返していた。
―愛我に指摘され、今一度気を付けるよう心がけたが、どうしても母と彼女を重ねてしまう……—
会話の際の自身の言動を顧み苦悶する。
―これでは、支乃森草一郎と変わらないな。—
―あのとき、誓ったのに……—
煌龍の脳裏には、幼い少女が緑の中を舞っていた。記憶の中の少女は、儚くも美しい舞を披露する。
―頭ではわかっている。彼女は舞をすることを苦痛だとは思っていない。—
―しかし、この家の為に躍らせるかと思うと、母のような結末を迎えさせたくないという感情が先行する。—
煌龍の行動原理は、母親が連火家に嫁いだのちの末路。
その行動は、白彩が連火の舞を稽古するのが自分の為だけでなく、連火家の事情を考慮してのものだということも大きい。
煌龍はいずれ妻となる白彩を大事にしたいと思っている。それは、彼女が早くに母親を亡くし、虐げられた為、その分の幸福を与えたいからだった。
―彼女と母の境遇が少し似ていて不憫にも思ったが、それ以上に彼女の舞に魅了された。—
―だからそこ、彼女には好きなように舞ってほしい。—
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