第二章
①
窓から差し込む日差しで、白彩は目を覚ました。こんなに穏やかな朝は、彼女にとって十年ぶりこと。
「おはようございます。白彩様」
朝の支度の手伝いに来たトキ。彼女は何着かの着物や洋服を用意している。
「白彩様は、和装と洋装どちらが好みですか?」
艶やかな着物も清楚なワンピースも一級品で、どちらも自分が来て見劣りしたら申し訳ないと思う白彩。しかし、提示されたどちらかを選ぶのなら、着慣れている和装にした。
「すみません。わたくし、洋装をしたことがないのです」
「では、本日は和装にいたしましょう。こちらの桃の花の着物などはいかがですか?」
桃の花に若葉色の帯。支乃森家で着ていた着物より上等な生地で作られたそれは、新品ではないものの大切にされていたことがわかる。
「急遽だった為、奥様が生前使われていた物しか用意できず、すみません」
「いえいえ。わたくしのような部外者に、亡くなられた奥様の形見を貸していただけるだけで身に余る次第」
この部屋だって、煌龍の母の物だった。白彩も母親を亡くした身。連火家に関係ない自分がこんな風に易々と借り受けて良い代物では無いと思慮する。
「白彩様は部外者ではありませんわ。あなた様は、既に連火家の若奥様のようのものです。連火家の現御当主で有らせられる煌龍様の父君は、邪神討伐部隊の局長として常に軍本部におりますから、実質煌龍様がこの屋敷の御当主です」
「そうですか」
「ですので、白彩様もこの屋敷を自分の物だと思って良いんです。それに洋館を使う人間は少ないですから」
「え?この様に立派なお屋敷がどうしてあまり使われないのですか?」
洋館は別館らしいが、これ程立派に造られた屋敷が普段使われていないのは不可解だった。
「色々事情がありまして。説明するのには時間を要する為、また後日でもよろしいでしょうか」
「いえ、無理に聞くつもりはありません。この様な質問をして、すみません」
疑問に思い、我知らず尋ねたことに白彩は謝罪する。
こんな些細なことで気に病むのは、支乃森家での暮らしが大きく影響している。
「そんなこと気になさらずに、早く着替えてしまいましょう。煌龍様がお待ちかねしております」
「はい……」
トキに着替えを手伝ってもらう。白彩は恥ずかしかったが、相手も譲らず、あっという間に着替えさせられていた。
トキに案内されるは、洋館の食卓。椅子の一つには、煌龍が座っている。
「来たか。……その着物、似合ってるな」
「ありがとうございます。御母様の着物をわたしくに貸していただき」
「貸してはない。譲ったんだ」
「えっ……」
「他に着る人間はいないんだ。何も考えず受け取れ」
「……わかりました」
「早く席に着いたらどうだ。食事が冷める」
並べられた料理は、パンやスープを中心とした洋食だった。初めて食べるが、白彩は異国文化に関する本も拝読しており、ナイフやフォークの扱いもわかっていた。
「ナイフやフォークの扱いが上手いな」
「恐縮です。煌龍様は、異国文化を好んでいらっしゃるのですね」
「否。どちらかと言うと、そこまで好きでもない。食事も白米の方が良い」
だとしたら、可笑しな話しだ。嗜好に合わない物をわざわざ選んでいる。少なくとも、白彩を連れて来てからずっと異国かぶれの言動をしている。
食事を終えると煌龍は、お勤めに出向く。
「あの。出かけになる前に、舞の披露を」
白彩はまだ、顔料の役割を果たしていない。支乃森の家では、毎夜毎夜舞を踊らされていた。
だが、煌龍は「怪我が癒えきっていないのに、無理するな。それに、舞もおまえが踊りたいときにやりなさい。俺は、おまえの行動を指図しない」と断る。それでは、連火家に連れて来た意味がない。煌龍の真意がわからず、白彩は困惑する。
「留守の間、屋敷内でなら、好きにしてかまわない。ただし、母屋には行くな。あまで、この洋館でだ」
「畏まりました」
「では、行って来る。帰りはいつになるかわからないから、出迎えも考えるな」
そう言って煌龍は出勤していく。
好きなように過ごせと言われた白彩だが、昨日来たばかりの屋敷内でどう過ごせば良いのかわからない。支乃森の座敷牢では、お稽古ごとがないときの息抜きは読書だった。本好きだった母のように読書をしろと叔父が強制したことが契機だが、白彩も本を読むことは苦ではなかった。寧ろ、外の世界を知る唯一の方法で、能動的に行っていた。
読書以外では、自ら歌舞を錬磨していた。だが、まだ傷が癒え切らない中で身体を動かすのは控えてくださいとトキに言われている。
舞と歌ならこの身一つで可能だが、読書は本が無ければできない。与えられた部屋の中で、暇を潰せる物がないか見回してしまう。
「何か、お探しでしょうか?」
すると、お茶を運んできたトキに声をかけられた。きょろきょろ首を動かしているところを見られた白彩は赤面する。
トキはそんな白彩を微笑ましく思いながら、「急に連れて来られて、好きにしろと言われても困りますよね。亡くなられた奥様も、最初はそうでした」と呟く。
今のトキの発言から推測すると、煌龍の母が嫁入り仕立てのときには既に連火家に仕えていたのだろう。彼女の眼の件も相まって気になる白彩だが、支乃森家で物事を訊ねる度に柢根から睨まれたことを思い出してしまう。
開きかけた口を噤む白彩に対しトキは、「気になることは遠慮せずお訊ねください。白彩様は、連火家の若奥様です。屋敷内の物もお手に取って当然の立場なんですよ」と遠慮して部屋に籠っていたことも見抜く。
白彩は益々顔を赤らめるが、流石に連火家の事情を聞くのは躊躇われる為、本などの類がある場所を訊ねた。すると、書庫に案内してくれるそうだ。
寝室から三隣の扉を開けると、五畳ほどの広さの両脇に本棚が向かい合う様に並べられている。本棚によって手狭に感じるが、壁の真ん中の窓から程よい春の日差しが入って心地良い。
「素敵な書庫ですね」
「白彩様が気に入ってくださって何よりです。後ほど、お茶とお菓子をお持ちします」
一人になった書庫で、本棚に挟まれるように位置する小さな丸机と椅子に腰かけた。ここの書庫は海外の本が多く、慣れない英文だが、必死に文章を紐解きながら朗読する。白彩には、それが楽しく思えてた。
しかし、昨日の負傷と十年ぶりに座敷牢から出られ疲労が溜まっていた。しばらくすると、こっくりこっくり船を漕ぐ。
最初の記憶。まだ、翡翠が生きていた頃。
まだ幼い白彩は、寂しさを紛らわそうと庭先で歌い舞う。舞はともかく、歌は母も好きだった。
物心が付く前に母である翡翠は座敷牢に入れられ、滅多に会わせてもらえずにいた。だから、白彩にとって歌舞は数少ない母の思い出だった。
いつも一人。母が存命だった為、草一郎も実の妹に執着していて、白彩は眼中になかった。
誰も見てくれない中、歌を奏で緑の中で舞う白彩。だがたった一度、自身の白と周囲の緑だけの空間に鮮明な赤があった。
それが何なのか、白彩は忘れてしまった。
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