しあわせの見つけかた

@fu-yu-yu

しあわせの見つけかた

 テスト終わりの午後。いつもの六人で打ち上げと称して入ったファミレスは、平日の昼間ということもあり普段よりも人が少なかった。

 四人席をくっつけた大きめのテーブルには、空になった皿が所狭しと並んでいる。まあ食べ盛りの男子高校生が六人もいればこんなものだろう。

「ていうかさあ、颯も一緒に勉強してたはずなのになんで俺らよりできてんだよ。意味分かんねえよ」

 自分の名前が呼ばれて顔を上げると、隣に座る裕太が俺の肩に手を回してくる。今日何度目か分からないテストの話題に苦笑しながら、絡んでくる裕太に冷たく返した。

「そりゃあお前らは勉強するとか言いながらずっと話してたからだろ」

 正面に座った涼がそうだそうだー、と俺に便乗すると、裕太は分かってましたよと言わんばかりにがくっとうなだれる。

「でもそれができる颯ちゃんてすげえよなあ。やっぱモテ男は違うなぁ」

 裕太は俺の目を見ながらそうからかうと、軽くワックスで整えている俺の髪をわしゃわしゃと撫でてくる。

「なんだよ颯ちゃんて」

「モテ男は否定しないのかよ」

 俺のボケに裕太が鋭く突っ込むと、周りからは笑いが零れる。自分でボケておきながらもなんだか笑いが込み上げてきて、モテ男じゃねえよと言う声は笑いで揺れていた。

 絶え間なく変わっていく話題に、時折笑いながら相槌を打つ。こいつらといるといつも話の種に困らない。氷が溶けて薄くなったドリンクをかき混ぜながら、ふとそんなことを思った。


 話が一段落ついた隙にスマホのロック画面を見ると、もうすぐ十六時。店に入ってから三時間も経っていたようだった。

 誰かが言い出したわけでもなくそろそろ店を出ようかという雰囲気が流れる。ただ、口にせずともみんなが同じことを思っているのが伝わってくる。家に帰るのはまだ早い。

 俺は手を伸ばして伝票を確認すると、隣に座る裕太に回した。

「いつものゲーセン行こうぜ」

 ゲーセンにでも行こうかと口にしようとしたそのとき斜め前に座る浩一がスマホから目を離して、俺を見ながらそう言った。

「いやなんで俺に言うんだよ、まあ行くけど」

「だって颯が行くって言えばみんな行くじゃんか」

「なんだよそれ。まあいいや、行こうぜゲーセン」

「うぇーい」

 俺がそう言うと、先ほどの沈黙が嘘のようにおっしゃ遊ぶぞーと騒ぎながら各々が席を立った。

 一周してきた伝票を片手に、もう片方の手でグラスの側面についた水滴をよけながら残りのジュースを一気に飲み干す。完全に氷の溶けきったそれは、もう炭酸がほとんど抜けてしまっていた。

 伝票をレジに持って行って会計をしていると、スマホのバイブが連続して鳴る。裕太たちからの送金だろう。

 店員さんのありがとうございましたー、という声に軽く会釈しながら、少し塗装のはがれた店の扉を押し開ける。途端に生ぬるい風が全身を撫でた。店のクーラーで冷えた体と相まってなんだか心地いい。

「さんきゅー颯」

「行こうぜー」

 少し離れたところから叫んでくる裕太たちに「おう」と返事をして、扉の前で待っていてくれていた涼と一緒に裕太たちを追いかけた。


「あー楽しかった」

「金欠だー」

 ゲームセンターを出るころには、陽がすっかり沈んでいた。今日一番の収穫であるでっかいマンボウのぬいぐるみを抱えた浩一は、じゃあ俺こっちだからと言ってバス停のほうへ歩いて行く。電車組の俺と涼も、駅で裕太たちと解散してそれぞれ帰路に着いた。

 電車の中で、裕太と一緒にクレーンゲームで取ったよく分からない海外キャラクターのマスコットキーホルダーを鞄に付ける。どこか愛嬌のあるその顔は、じっと見つめれば見つめるほどにおかしく見えてくる。

 蛍光ピンクの全身をムニムニと揉んで、またくだらないものに金を使ってしまったと頭の中で呟きながらも楽しかったからそれでいいと思う自分がいた。取れた瞬間の裕太の笑顔を思い出すと、自然と笑みが零れてくる。

 電車に揺られること一時間半。改札を出るころには二十三時近かった。

 家までの道を歩きながらふと空を見上げると、今にも雲に隠れてしまいそうな、だけど綺麗な満月が浮かんでいる。いつもより大きく見えるそれに、何か引力が働いているかのように自然と視線が吸い寄せられるような、不思議な感覚がした。

 しばらく歩くと、住宅街の一角に薄茶色の壁に黒い屋根の一軒家が見えてくる。いつもの灰色の軽自動車に加えて、今日は珍しく黒い乗用車が止まっているのが目に入る。カーテンの隙間から漏れる光は、リビングに人がいることを示していた。

 ……心臓が、スッと冷えていく感覚がした。玄関のドアノブにゆっくりと手をかけて数秒、耳を澄ます。案の定母の叫ぶような声と、父の怒鳴り声が聞こえてくる。

 ああまたか、と思った。

 ファミレスで食べたパスタの温かさも、ゲーセンでマンボウが取れたときの興奮も一気に冷めた。一瞬湧きあがった恐怖はすぐに苛立ちのようなものに変わり、全てを投げ出したくなる。

 いつものことだと自分に言い聞かせながら無理やり口角を上げようとするも、今日はもう疲れたと言わんばかりに表情筋は動かない。というか、周りには誰もいないのにどうして笑おうとしているのだろう。そんな自分の癖が哀れに思えてきて、もう全部が馬鹿馬鹿しかった。

 俯いた視界にふと入った蛍光ピンクのキャラクターがこちらを見ていた。あのときの感覚が蘇ってきて、だけどそれすらも煩わしい。

 音を出さないように玄関のドアを開けて、そのまま自分の部屋に入って、風呂は諦めて布団に入り眠りにつく。そこまでを想像して、だけどドアノブを掴んでいる右手は動かなかった。もう、声が聞こえるだけでも嫌なのだ。

 右手の力を抜くと、生ぬるい金属の感触はいとも簡単に手先からすり抜けていく。気づけば足が勝手に動いて、元来た道を戻っていた。


 夜の公園は静かだった。夜空には灰色の雲がかかって、一本の街頭だけが辺りを薄っすらと照らしていた。ところどころ錆びた遊具はどこか不気味に影を落として、中学の部活帰りに友だちと日が暮れるまで話したときのような、魅惑的な姿とはまるで違う。ベンチに腰掛けると一気に疲れが襲ってきて、深く息を吸うと夜露に濡れた草の匂いが体中を巡った。

 小さな羽虫が気になったので半袖の制服の上からジャージを羽織り、膝の上に置いた鞄に顔をうずめた。考えなしにここまで来てしまったが、この後はどうしようか。

 深く、息を吸う。何度も意識的にそうしないと息を吸うのが面倒くさくなってしまう。深海にいるかのように空気が遠く感じた。

 少し休んだら、家に帰ろう。さすがにここで寝るわけにはいかない。

 だけどだんだんと、どうでもよくなってきた。今はただ静かに休みたかった。あと少しだけ――。


             *


「おや、お客さんかい。めずらしいね」


 どれくらい時間が経ったのだろう。

 誰かの声が聞こえた気がして顔を上げると、真っ黒な服に身を包んだ二十代くらいの女の人が立っていた。

 黒い七分袖のワンピースに、黒の三角帽子。手には彼女の身長ほどの長さの箒を持っている。腰までまっすぐに伸びた長い髪は、薄い星の明かりをも吸い込むほどに黒かった。だけどそれとは対照的に、彼女の胸元に揺れている翡翠色のペンダントは淡い光を放っている。

「あんた迷子かい?」

「え……俺?」

「あんた以外誰がいるんだよ」

 女の人は呆れたようにそう言うと、藍色の瞳でまっすぐに俺を見つめた。その瞳になんだか俺の全てを見透かされているような気がして、目を逸らす。

 その瞬間、彼女の背後に立ち並ぶ大きな木々が目に入った。そこにあるはずのない風景に、迷子じゃないと言おうとして開いた口からは思わず「え」と声が漏れる。

 そこは深夜の公園ではなく、どこだか分からない森の中だった。

「で、迷子なのかい?」

 腰に手を当てて仁王立ちをしている彼女は、そんな俺の様子を見て先程よりも少し語気を強めた。

「えっと、あの……迷子、かもしれないです」

 早くお答えなさいと語りかけてくる彼女の視線に応えるべく絞り出した声は、どこか間抜けに響いて森の中に溶けていった。

「あんた、名前はなんていうんだい」

「颯です」

「そうかい。じゃあ颯、ついておいで。この森に誰かが入ってくるのもずいぶんと久しぶりなんだよ」

「……はい」

 彼女は少し嬉しそうに笑ってそう言うと、くるりと向きを変えて歩き出した。

 俺は言われるがままに立ち上がって、彼女についていく。誘拐されているのではないかという恐怖もなきにしもあらずだが、深夜の、しかも見知らぬ森に一人取り残されるよりは何倍もマシだった。

「あの、ここってどこなんでしょうか」

 彼女は弾むような足取りで、不規則に並ぶ木々の間を歩いて行く。その姿は彼女の大人びた見た目とは不釣り合いで、まるで少女のようだ。

「ここは私の家の庭のようなものだ」

 彼女はそう言いながら俺のほうを振り返る。その拍子に彼女が持つ箒がふわりと揺れた。

「あのお姉さんって、何なんですか? その、大きい箒とか」

「んー、魔女? って言うのかな」

 彼女はそう言うと、いたずらっ子のようににこりと笑う。

「ていうかお姉さんって、なんだか嬉しいな。私はこれでも千年くらいは生きているんだよ」

「……へー」

「あ、おい! 信じてないだろ!」

「まあ半信半疑というか」

「はぁ、ひどいじゃないか。せっかく迷子のところを助けてあげたというのに」

「それはまあ、ありがとうございます」

「ふふ、素直なのはいいことだ」

 助かってるのか分からないんですけど、という言葉は飲み込んで、嬉しそうに笑う彼女の後について行く。彼女が何者なのかは分からないが、悪い人ではない気がする。鼻歌を歌いながら歩く彼女の背中を見つめながら、そう思った。


 しばらく歩くと突然森が開けて、目の前には外国の写真でよく見るような大きな洋館が現れた。

 屋根はくすんだ水色をしており、星の明かりを浴びて淡く輝く白い壁には西洋らしい美しい装飾が施されていた。その壁の半分ほどがたくさんの小さな葉をつけた蔦に覆われていて、二階中央にあるバルコニーの手すりにまで巻き付いている。

 しかし深い森の中にそびえ立つその洋館は、優雅で華やかな見た目とは対照的に、静かに異質な雰囲気を放っていた。

「一緒にお茶でもどうかな」

 立派な洋館に圧倒されていると、彼女がこちらを振り返って声をかけてきた。

「いいんですか? というかもしかして、ここに住んでいるんですか?」

「ああそうだよ」

 目を丸くして尋ねる俺に、彼女は当り前だと言うようにそう返すと入り口に向かって歩き出す。少し緊張しながらも、彼女の後について洋館の中に入った。

 大きな窓から差し込む星明かりが、薄っすらと館の内を照らしていた。広い室内には右端から中央の壁に沿って木製の階段が続いていて、床には高級そうなソファーが二組向かい合わせにぽつんと置かれている。左右に伸びる廊下の壁には扉がいくつも続いていて、その合間には灯りのともっていないランプが規則正しく並んでいた。

 彼女は目の前にある階段には登らずに、左に伸びる廊下をまっすぐ進み小さなキッチンのある部屋に案内した。

「そこに座っていろ」

 彼女は部屋の明かりをつけてそう言うと、年季の入った木製のテーブルを指さす。言われるがままに一つの椅子に腰を掛けて、部屋の中を見渡した。

 この部屋は先程通ってきたロビーや廊下とは少し違った。今までも、その華やかな館の外見に反して装飾品などがあまりなく質素ではあったが、どこか気品のある、落ち着かない雰囲気が漂っていた。しかしこの部屋の中は、そうした緊張感のない温かい空気が流れている気がする。

 しばらくすると、彼女が綺麗なティーカップに入ったお茶を二つ運んできた。

「さあ、召し上がれ」

「いただきます」

 ティーカップを口元に寄せると、森の木々のような香りがする。一口飲むと、控えめな甘さとほどよい苦みが混ざり合って、疲れた心に沁み込んでいくような味がした。

「どうだい? 私の好きな紅茶なんだよ」

 彼女は自慢げに目を輝かせながら、俺の顔を覗き込む。

「おいしいですね」

「ふふ、そうだろう」

 満足そうに笑って、彼女もティーカップに口をつけた。

 それから少し、彼女との間に沈黙が流れる。聞きたいことは山ほどあった。だけど何から聞けばいいのか、どこまで聞いていいのかが分からない。沈黙が息苦しいというわけではなくて、むしろなぜだか居心地が良い。だけど何か彼女と話したいと思った。繊細に施されたカップの模様を目でなぞりながら、頭の中で同じことを繰り返し考える。

 なんだかいたたまれなくなってきて顔を上げると、彼女の背後の壁に立てかけてある箒が目に入った。

「あの、魔女さんって、本当に魔法が使えるんですか? その箒で空飛べたりとか」

 思わず気になっていたことを口にした。

「ああ使えるさ。まあ魔法の種類によって得意不得意はあるけどね。私がよく使うのは飛行魔法と記憶魔法かな」

 魔女さんは得意げにそう言うと、嬉しそうに目を輝かせる。

「見てみるかい?」

「見てみたいです」

 彼女の突然の問いに、思わず頷く。

「じゃあついておいで」

 彼女はそう言って部屋の奥まで進むと、彼女の背よりも少し小さいアーチ型の扉を開けた。

 その中は小さな部屋になっていて、美しいガラスでできたケースのようなものが並べられている。

「私くらい生きていると、忘れたくない思い出はこうして宝石に閉じ込めておくんだ。これはほんの一部だけれど、こうすればいつでも思い出せるからね。これが私の得意な魔法なんだ」

 彼女は部屋に灯りをともすと、たくさんあるケースのうちの一つを開いた。その中には丁寧に、色とりどりの宝石が並べられている。

 よく見るとそれらの奥には、ひとつずつ映像が映し出しされていた。これが魔女さんの記憶なのだろうか。

 勝手に覗いてしまっていいものなのか分からず顔を上げると、魔女さんは懐かしそうな目をして宝石一つひとつを見つめていた。

「今日はここに泊まるといいさ」

 魔女さんは宝石から目を離さずに、そう口にした。ほんの一瞬、その目が悲しそうに光ったような気がしたが、こちらを見た彼女の顔には優しい笑顔が浮かんでいる。

「いいんですか?」

「ああ。君がぐっすり眠ったら、朝になる前に君のことは家に帰しておくよ。ゲストルームはこの部屋の隣にあるから、好きなときに寝ておくれ」

「はい」

 彼女は再び宝石にガラスケースをかける。

 そのままここを出て行くようなので、それに続いて俺もこの部屋を後にする。

 それからしばらくは、残った紅茶をゆっくり飲みながら窓の外や部屋の中を眺めていた。魔女さんは鼻歌を歌いながら箒の手入れをしたり、本を読んだりしていて話しかけるとときどき魔法を見せてくれたりもした。

 だけどだんだんと眠くなってきて、魔女さんに借りた本を読んでいたつもりが気づけば目を瞑っていたらしい。

「しっかり休むんだよ」

 魔女さんの声が聞こえた気がして、温かいものが肩にかけられる。ふかふかして気持ちよくて、まるで誰かに包まれているかのようだった。

 こんなに穏やかに眠りにつけたのは、いつぶりだろうか。


 ――朝から続く両親の喧嘩。怒鳴り声、テーブルを叩く音に、布団の中で耳を塞ぐ。目を開けることすら億劫で、真っ暗な視界の中でどこに逃げようかと、ただそれだけを考える。

「おい――おい! 大丈夫か? 悪い夢でも見ているんじゃないか」

 遠くから誰かの声が聞こえてくる。この声は……誰だっけ。力強くて温かくて、安心する。

 嫌な汗が全身を伝って気持ち悪い。それに加えて体が痛い。

「颯、颯! 大丈夫か」

 だんだんと五感が冴えてきて、魔女さんの声がはっきりと聞こえた。ああそうか、寝ていたんだ。

 いつも通りの、最悪な目覚めだった。瞼が重たくて、顔が乾いている。体が重たい、だるい、何もしたくない。

「とりあえずこれを飲め」

 渡された水を口に流して込んで、飲み込む。

「魔女さん、すみません。うるさくしちゃいました?」

 重たい頭を上げて彼女を見ると、心配そうな顔をしてこちらを見ていた。

「いや、ずいぶんと苦しそうに見えたから起こしただけだ」

「すみません、ありがとうございます」

 俺はお礼を言うと、肩から落ちたタオルケットを拾って畳む。魔女さんが掛けてくれたものだろう。

「気分転換に外に出ないか」

 魔女さんのその言葉に少し驚きながらも、こくりと首を縦に振る。じゃあついておいで、と言う彼女と一緒に部屋を出た。先程通った廊下を歩き、ロビーに向かう。そのまま玄関から外に出るのかと思っていたが、魔女さんはロビーにある階段を上って大きな部屋まで案内した。

 彼女はそのまま部屋の奥まで進み、大きな窓の前で足を止める。魔女さんの隣に並んで窓の外を見ると、その窓はバルコニーへと繋がっていた。

 魔女さんに続いてバルコニーに出ると、夜風が頬を撫でてふわりと森の香りがした。ぼんやりと残っていた頭痛が落ち着いてきて、お礼を言おうと魔女さんを見ると、魔女さんの手には箒が握られている。

「なあ颯、空を飛んでみたくないか?」

「空?」

 魔女さんはそう言うと、手に持った箒にまたがった。

 ふわっと、彼女の体が宙に浮く。

「どうだい?」

「……飛んでみたいです、いいんですか?」

「いいだろう、特別だぞ」

「ありがとうございます!」

 見よう見まねで箒にまたがって、戸惑いながらも魔女さんの腰に手を回す。

「ちゃんとつかまっているんだぞ」

 彼女がそう言った瞬間、体が一気に宙に浮き上がった。

「すげー……」

 バルコニーの床が、魔女さんのお屋敷が、瞬く間に遠ざかっていく。

 心臓が置き去りにされるような感覚に心がひんやりしたのは一瞬で、それはすぐに静かな興奮に変わる。

 あっという間に、世界の美しさに目を奪われた。

 ところどころ灯りのともった町は、真冬のイルミネーションのように美しい光を放っている。そして顔を上げると、目の前に広がる空には満天の星が煌めいていた。見たことのないほど美しい景色に息を吞む。

「すげー……めっちゃ綺麗」

「ふふ、喜んでくれてなによりだよ」

 彼女はまっすぐ前を向いたままそう言うと、さらに箒を上昇させた。

 しばらく飛ぶと、魔女さんは箒のスピードを落としてこちらを振り返る。

「何か君の話を聞かせてくれよ。私も君に興味がある」

 彼女はそう言うと、少女のような笑みを浮かべた。俺もそれにつられて笑みが零れる。

「俺の話でいいんなら……うーん、何から話そうかなあ」


 魔女さんはよく笑う人だった。大人びた見た目からは想像できないくらい無邪気に笑う。明るく笑う。その瞬間を心から楽しんでいるような、純粋で素敵な笑顔だった。

 魔女さんと色々なことを話した。中でも魔女さんが気に入ったのは、俺が鞄に付けているクレーンゲームの変なキーホルダー。他にも勉強のことや部活のこと、友達のこと、他愛もないことを話していくうちに、魔女さんと自然に打ち解けていった。

 一通り自分のことを話し終えてしばらく飛んでいると、次第に風が強くなってきた。魔女さんがもうそろそろ戻ろうかと口にする。まだ名残惜しい気持ちもあったけれど、その言葉に素直に従った。

 ゆったりと飛ぶ箒の上で、魔女さんの髪が風になびくのを目で追う。ときどき頬を掠めるそれは、絹のように柔らかくて心地のよい香りがした。

 箒のゆるやかな揺れに身を委ねていると、びゅう、と一際強い風が吹いた。

 魔女さんのつけている翡翠色のペンダントが煽られて、俺のほうに飛んでくる。危ないと、思わず右手を伸ばしてそれを掴むと、ひんやりとした感触が手に伝った。

 ただなんとなく、手の中にあるペンダントを眺める。すると星の光を反射したそれの奥には、ある映像が映し出されていた。

 たくさんの宝石が並べられていたあの部屋を思い出す。これはきっと魔女さんの記憶だ。

 勝手に見てはいけないと思うと同時に、目に飛び込んできた映像から目が離せなかった。

 ペンダントに吸い込まれていくような感覚がして、誰だか分からない人の声が鼓膜を打った。


 魔女さんと同じような黒い服を着て箒を持った人たちが、悲鳴を上げながら逃げまどっていた。爆発音に、何かが割れる音、早く逃げろと叫ぶ声。途端に視界が真っ暗になる。誰かに抱きかかえられて「逃げるぞ」と言う男の人の声が聞こえた。

「逃げるんだナーシャ、父さんと母さんも後から迎えに行くから」

 森の中を走って、走って、叫び続ける。お父さん、お母さん、どこにいるの。壊された建物、跡形もなく焼き尽くされた村。

 怒りと憎しみと、絶望と孤独と、そして抱えきれないほどの悲しみが何年も何年も――。


「おい、おい! どうしたんだ、さっきから。眠くなってきたのか? それともまた気分でも悪いのか?」

 魔女さんの声に、はっと意識が引き戻される。

「いや……なんでもない、大丈夫」

 そうか、と言って魔女さんはほっと息をつく。

「ねえ魔女さん。魔女さんって本当に千年も生きてるの?」

「さあどうだかなあ。というか、レディーに年齢を尋ねるなんて、マナーがなってないぞ」

「それはごめん。でもあまりにも綺麗だから、何百年も生きてるだなんて想像がつかないんだ」

「ほう、ずいぶんと口が上手いじゃないか」

 魔女さんは、笑っていた。大人びた見た目からは想像できないくらい無邪気に、嬉しそうに。

「ねえ魔女さんてさ、答えたくなかったらごめん。家族とか、他に魔法を使える人たちはいないの? あの家に一人で住んでるの?」

「ああそうさ。他の魔法使いたちはずっと昔に、みんな死んでしまったよ」

 堪えきれずに聞いてしまった。けれど彼女を傷つけてしまうかもしれないという思いとは裏腹に、彼女は笑顔のままあっさりとそう答えた。

 その笑顔に、胸がギュッと締め付けられる。

 俺は朝、目が覚めた瞬間、今日は駄目な日だと思う。毎日のようにそう思う。だけど一日中布団の中で独りうずくまっているくらいなら重たい体を動かしてでも学校に行って、友達の声を聞きたいとも思う。たとえ心の奥に暗い感情があったとしても誰かと話している間は少しだけ、心が軽くなるから。

 どのくらいの時間がかかるのだろう。俺が想像できないような悲しみから、たった独りで立ち上がるには。家族もいない、友達もいない、涙を流す夜も、絶望の中に目覚める朝も、彼女は独りなのだ。彼女の記憶の中で感じた苦しみや悲しみの重みが、それを受けた衝撃が、体から離れなかった。

 どうしたらよいのか分からなくて、でもどうにかしたいと思って、魔女さんの腰に回していた手に力を込める。

「どうしたんだ? やっぱり眠いのか?」

「いや違う、これ。ごめん、勝手に見ちゃって」

 無意識に強く握りしめていた翡翠色のペンダントを、魔女さんの首元に戻す。怒られてしまうかもしれないと思ったが、黙っていたくもなかった。

「ああなんだ、それか」

 魔女さんは仕方なさそうに笑って、箒をゆっくりと降下させた。そしてふわりと、魔女さんの家のバルコニーに降りた。

 しばらくペンダントを見つめた後、彼女は俺の目を見て少し悲しそうに微笑んだ。

「颯は魔法に興味があるのかい?」

 思いがけない質問に、思わず「え」と声が漏れる。

 興味がないと言ったら嘘になる。というか、興味はある。俺たち人間にとって、魔法という言葉の響きだけでそれはとても魅力的なものだ。

 問いかけの意図が掴めず困惑していると、俺の表情から読み取ったのか、魔女さんは真剣な眼差しで俺を見つめて口を開いた。

「それは何か、変えたいことがあるからかい?」

 魔女さんは優しく、でも力強い光で満ちた瞳で俺のことを見つめる。

 そういうことか、と思った。

 それと同時に、俺の家のカーテンの隙間から漏れていた冷たい光を思い出す。

 そんな都合のいい力があるのなら、変えたいと思っているのだろうか、俺は。家に帰ればおかえりと笑う両親がいて、温かいご飯が並んでいて、みんなで食卓を囲む。温かな静寂の中で眠りについて、目覚ましの音に目を覚ます。

 魔法の力を使ってそんな日々が手に入るのなら、しょうがないと諦めてきたあたり前が手に入るのなら、俺はどうするのだろう。

 彼女の瞳に、俺にも分からない俺の全てを見透かされているような気がして、でもここで目を逸らしてはいけないと、必死に言葉を探した。

「魔女さんは、どうしてそんな素敵な笑顔で笑えるの? ……魔法、使ったの?」

 彼女の問いかけに答えることはできずに、でも彼女の目を見たまま声を絞り出した。その声は自分で思っていた以上に震えていて、情けなくなってくる。

 魔女さんはそんな俺を見て困ったように笑うと、優しくて、だけどどこか諦めの混ざったような声で言葉を紡いだ。

「何百年と時間をかけて、少しずつだよ」

 彼女の藍色の瞳が静かに揺れる。

「悲しみは、過去に起きてしまったことに対する感情だ。だから時間が、私を過去から、悲しみから遠ざけてくれた唯一の友だった」

 その瞳は見惚れるほどに美しく、この世界を純粋に、だけどどこか寂し気に映し出していた。

「でも君は、そうじゃないだろう」

「……うん」

 きっと泣きそうな顔をしている俺を、魔女さんは優しく抱きしめた。

 頭の中に浮かんでいるのは、裕太たちの笑顔。笑い声。あの温かい時間。

 やっぱりだめだと、魔女さんの腕の中で強くそう思う。都合のいい力で掴んだ幸せは幻影だ。それに縋ったって結局いつか寂しくなるに決まっている。そして魔女さんもきっと、俺の人生に魔法をかけるつもりなんてない。

 誰かに抱きしめられたのは久しぶりだった。その温かみに、ずっと堪えていた涙が頬を伝う。

「大切なものを、見失ってはいけないよ」

「うん」

 魔女さんの温もりが、ゆっくり離れていった。俺たちの間に柔らかい風が吹いて、体に残っていた魔女さんの温もりを奪っていく。

 魔女さんは俺を見つめて、にっこりと笑った。無邪気で明るいあの笑顔で。

 雲で隠れていた月が顔を出す。大きな大きな満月が、魔女さんを後ろから照らしていた。それは「魔女」が出てくるどんな童話の中の一場面よりも美しく、俺の瞳に焼き付いた。

 降り注いだ月明かりが俺たち二人の足元に影を落とす。柔らかな風が吹いて、木々が静かに揺れた。


             *


「じゃあさー、今度の花火大会みんなで行こうぜー」

 終業式の終わった午後。今日は裕太たちと、打ち上げと称してカラオケに行っていた。

 駅までの帰り道で隣を歩く裕太と明日からの夏休みに何をしようかと話していると、歌いすぎてガラガラになった声で裕太がそう提案する。

「めっちゃいいじゃんそれ。涼たちも誘おう」

 俺は裕太の誘いに勢いよく頷くと、声の出ない裕太に代わって後ろを歩く涼たちに向かい叫んだ。

「なあ今度みんなで花火見に行こうぜー!」

 すぐに「おー!」という声が聞こえてきて、隣を歩く裕太も嬉しそうに笑った。

「なんだよ颯、超嬉しそうな顔してんじゃん」

 隣にやってきた涼が茶化すようにそう言って、俺の頬を人差し指でつついてくる。その指がなんだか温かくて、余計に頬が緩んでしまう。

 誤魔化すように涼の肩に手を回して、もう片方の手で隣にいる裕太を捕まえる。

「なんだよ颯ー」

「なんでもねえよー、別にいいじゃねえか」

 まんざらでもなさそうに笑う裕太と冷たくあしらってくる涼に挟まれていると、後ろから浩一たちも走ってくる。

「あー! お前らだけずりいぞ」

「ずるいってなんだよ、意味分かんねえよ」

 振り向きざまにふと夜空を見上げると、大きな満月が目に飛び込んでくる。それを背に、箒に乗った人影が見えたような気がして目を凝らすけれど、そこにはただ美しい満月が浮かんでいるだけだった。

 駅までの道を、馬鹿笑いしながらゆっくり歩いた。

 一歩進むごとに、鞄に付けた蛍光ピンクのマスコットが揺れる。その胸元についている宝石のようなチャームは、月の明かりを反射してきらきらと輝いていた。

 裕太たちに囲まれながら、俺の頬をふわりと柔らかい風が撫でていく。

 なんだかそれが懐かしく温かくて、ああしあわせだ、と思った。

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