第6話 『明日は明日の風が吹く』
人はいずれ死ぬ。だから日々を面白く楽しく生きる。
それが私のポリシーなのだと。
誰かのように無用な修飾語を弄することなく、たった一言、シンプルに言ってのけた。
「さっき、君の話を私は『わからない』って評したけれど、ちょっとわかるなーって思うところもあったんだよ。例えば『人はいずれ死ぬ』ってところとかね」
意地悪言ってごめんね、と片目を瞑る神代さん。
謝る必要なんてどこにもないのに、律儀な人だ。
「君の言う通り、人はいつか死んじゃうんだよね。君も、もちろん私も。寿命でも病気でも事故でも殺人でも自殺でも、絶対に死ぬ。死んじゃう」
それにね。
神代さんは、こう続けた。
「——退屈でも、人は死んじゃうと思うんだ」
退屈。それはこの数年間、僕を縛り続けている言葉。
「君は『自分がない』って言っていたけれど……本当にやりたいこととかなりたい姿とか、そんなの私だってわからないよ」
「え……」
正直意外だった——というのは失礼だろうか。
意外と思うことを許させるほど、僕は彼女のことを何も知らない。けれど、これまでの彼女の立ち居振る舞いから、何となく生きる上での明確な意思、のようなものを感じていたのだ。
僕の戸惑ったような返事に、神代さんは恥ずかしそうに笑う。
「あははっ。それ、友達にもよく言われるんだけどねー。でも、本当にないんだよ。もう四回生なのにね」
「……辛く、ないんですか?」
思わず訊いてしまった。
口にしてから、失言だったと後悔する。
神代さんは気にするなと言わんばかりに笑顔で続ける。
「んー、別に辛くはないかな。だって私は、生きてて退屈だって感じることがないから」
「——」
「……ようやく、ちゃんとこっちを向いてくれたね」
細められた目は、心の底から嬉しさを湛えていた。
一瞬気恥ずかしさを覚えるも、今度は目を逸らせない。
それくらい、彼女の言葉が衝撃的だった。
「確かに人はいずれ死ぬ。それは間違いない。だけれど、それは裏を返せば、死ぬまで人は死なない」
生きてるってことだよ。自由ってことだよ。
神代さんは言う。
生きるとは——自由。
詭弁だと、言葉遊びだと、一笑に付することは容易い理屈。しかし何故だろう。彼女が言うと、馬鹿にできない——聞き逃してはならない気がしてくる。
「今やりたいことがないってことは、これからいくらでも見つけられるってこと。死ぬまでは生きてるんだから」
「死ぬまでは——生きている」
「そ。私はね、
神代さんは自分の気持ちを確かめるように一度深く息を吸い、こう続けた。
「ずっと、楽しいを追い求めているんだ」
それは、いつか聞いた台詞だった。
いつか聞いて、いつのまにか忘れていた台詞。
そして——おそらく彼女が一番大切にしている言葉。
「人間、生きていれば凹む時もある。挫折だってするし、それをずっと引き摺っちゃう気持ちも知ってる。でもさ、そんなのもったいないじゃん。そんな暇があるなら、私はひとつでも多く、自分が楽しいって思うことをしていたい。私は私の一番の味方だから」
「——」
「人はいずれ死ぬ。なら死ぬまで。やりたいことがない。ならそれが見つかるまで。とにかく自分の中の『楽しい』を頼りに、『楽しい』の赴くままにやってみる! 辛さとか退屈なんて感じる暇がないくらい、毎日を『楽しい』で生き抜く! それが私のポリシー!」
笑顔でVサインを決める神代さん。
その太陽のような——否、太陽そのものの笑みを見ていて思う。
ああ——僕と彼女の違いはここにあるのだと。
何もない自分に絶望して、行動することを放棄した。人はどうせ死ぬのだから、何をしても、何をしなくても結果は変わらないと。
彼女は違う。
同じ結果を受け入れた上で——そこに至る過程をこそ重んじている。
ひたすらに、我武者羅に、面白い、楽しいと思うことに一直線。
人はいずれ死ぬ。だから日々を面白く楽しく生きる。
自分がないなんてとんでもない。
だって、その『楽しい』を感じているのは彼女自身だ。
と、そこでふと思い当たることがあった。
「……てことは、もしかしてさっきいきなりベランダから飛び降りた理由も、ただ面白そうだったから?」
口にしてから、そんなわけがないかと自分で自分に苦笑する。だってそんな理由で、彼女曰く『打ちどころが悪ければ死ぬ』行為に及ぶなんて、いくら何でもありえないだろう。
否定の言葉を期待して彼女の方を向くと、神代さんは露骨に視線を逸らしていた。
目線が泳ぎまくっている。
「……え、本当に?」
「い、いや? た、確かにそんな気持ちもあったかもしれなくもないけれど、ただ純粋に君を助けようと思ったこともまた事実ではありましてですね……」
「何対何くらい?」
「……九対一くらい」
あの時の彼女の言葉を思い出せば、どちらが九で、どちらが一なのかは言うまでもない。
「……ぷっ」
思わず——本当に思わず、それは口から漏れていた。そして、一度出てしまったそれは収まることなく、次々と僕の中の何かを満たしていく。
止まらない。止められない。
こんなに笑ったのは——何年ぶりだろう。
そうだった。久しく忘れていた。昔から、心の底から笑った時、僕は引き笑いになるのだった。
「むー。なーんか釈然としないんだけど……まあ、いっか」
そんな僕に初めこそジト目を向けていた神代さんだったが、やがて苦笑へと変わっていく。
込み上げてくる笑いをすべて吐き出した後で、僕は肝心なことを口にした。
「あなたの考えは、よくわかっ——……知ることができました。それで、今の話とさっきの話がどう繋がるんですか?」
「? さっきの話って?」
「ほら、言っていたでしょう。僕の自分を見つけに行くって」
「ああ、そのこと」
神代さんは得心がいったようにポンと手を打つ。
むしろそれこそが本題だと思うのだが……相変わらず、肝心なところで掴めない人だ。
「いやなに、簡単な話だよ」
そして、神代さんは空を——そこに浮かぶ月を指差して。
「追いかける夢がないなら探せばいい。成し遂げたい目標がないなら立てればいい。頑張る目的がないなら作ればいい。滾る情熱がないなら気づけばいい。惹かれる興味がないならやってみればいい」
千種君が楽しいと思うことを。
『楽しい』を頼りに、『楽しい』の赴くままに、毎日を『楽しい』で彩っていく。
そうして走り続けた先に、いつか見つけるのだ。
すべてを捧げられる生きがいを——
「……僕に、出来るでしょうか?」
これまで何も行動してこなかった。無気力に、無為に、無駄に生きてきた。すべてがどうでもよかった。
そんな僕に、はたして出来るのだろうか。そんな、雲を掴むような——否、太陽を掴むような生き方が。
「出来るよ」
神代さんは言った。
芯の通った鈴の声で、力強く言い切った。
「だって、君は知っている。誰かの言葉が、誰かの存在が、誰かの生き方に影響を与えることを。あるいは与えてしまうことを。そんな君だから大丈夫。きっと出来る。というか、私がやりたい!」
大きな瞳を爛々と輝かせる神代さん。
「面白そう」「楽しそう」と、その瞳が語っている。
それでわかってしまう。
ああ、これは完全に神代紗悠のエゴだ。
そしてそのエゴに、僕は足を踏み入れようとしている。
「……君は最低だ」
「君は最高だね!」
そう。彼女のエゴと宣いながら——その決断は、結局は僕のエゴでしかない。
『人は人に影響を与えることもできず、また、人から影響を受けることもできない』と語ったのは、確か太宰だったか。そんなことは関係ない。
今この瞬間、この気持ちを感じているのは僕だ。僕自身だ。
僕は——この世界に存在している。
「さあ、私に教えてよ。君は今、なにをしたい?」
神代さんは立ち上がる。
「……僕がしたいこと。それは——」
続けて、僕も立ち上がった。
欄干の上、二人の視線が交錯する。
「——」「——」
無言の笑みを交わす。
そうして、幻想的な月明かりのもと、涼しい夜風に髪を靡かせながら、ベランダから飛び降りて行った。
——神代さんだけが。
「……」「……」
本日二度目となる見事な着地。
心の中で密かに拍手を送る僕に、神代さんは地上から目を剥いた。
「……え、何で!? 今、完全に二人で一斉に飛び降りる流れだったじゃん! 良い雰囲気だったじゃん!」
「何を言っているんですか、飛び降りませんよ。ここ僕の部屋だし。僕運動神経悪いし。女子中学生に五十メートル走で負けるし」
「あっ、根に持ってる!」
「僕が今したいのはさっさと寝ることです。時計を見てください、もう一時回ってますよ」
「それはそうだけどさあ!」
「それに」
そこで僕は、言葉を区切ると。
「——今日、一限があるんです。言語学概論。期末百パーセントだから正直出なくてもいいんですけれど……ほら、僕友達いないから」
「——そっか。それは早く寝ないとだね!」
僕は笑う。彼女も笑う。
昨日とは違う今日が始まる。
神のもちぐされ 水巷 @katari-ya08
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