第3話 『どしたん話聞こか』
なるほど——そういうことか。
これこそが——彼女が言っていた正当な理由。
まったく、本題とはよく言ったものである。
「そういうこと。隣で今まさに死のうとしている男の子。そんな逼迫した状況下にある子の部屋には、無断で突入せざるを得ないってわけ。お隣の好しみとして、ね」
「さいですか」
「つまり要約すると『どしたん? 話聞こか?』ってことだよ!」
「一気にギャグ感が増したな」
ドヤ顔でサムズアップ、おまけにウィンクまで付けてくる
そんな僕の視線も神代さんには効果が薄いようで、
「まあ、どちらかというと私はそういう感じで話しかけられる側なんだけどね」
と、何事もなかったかのように会話を続ける。
強メンタルだ。
「この前も大学で一人でいる時に、そんな感じで知らない男子に声かけられてさ。『チャットボットで間に合ってます』って言って追い払っちゃった」
「火力たっか」
「その前もね……って、私の話はどうでもいいんだよ!」
バシッ。
膝を叩いて抗議してくる神代さん。
そんな大きい声を出されても。
「あなたが始めた物語でしょう」
「じゃあ私の物語は完結!
改めて、と神代さんは軽く咳払いをして、
「こんな夜更けに、一人で、ベランダから飛び降りて——どうして君は、死のうとしていたのかな?」
首を傾けた拍子にウェーブの毛先がハラリと流れ、彼女の口元を覆い隠す。一瞬、唇の端に捉えた感情を見失ってしまう。
だけれど——目は別だ。
黒味がかった琥珀色の瞳。
それは、どんな言葉よりも雄弁に語っている。
知りたいと。教えて欲しいと。
好奇の色で染め上げていく。
そんな目で見つめられたら、僕みたいな人間はひとたまりもない。ただでさえ他人と関わる機会など皆無だというのに。自然の摂理として、僕の視線は徐々に彼女から離れていく。
月が綺麗な夜で良かった。
心置きなく空を眺めることが出来る。
「ちょっと
数センチの距離なのに、手をメガホンの形にしてブーたれる神代さん。
「……別に、死のうとしていたわけじゃないですよ」
ようやく口に出せた言葉は、そんな陳腐な否定だった。
「えー? 本当かなー? 私には今にも飛び降り自殺をしそうな感じに思えたけど」
「——……だいたい、ここ二階ですよ? たかがアパートの二階から飛び降りたところで死ぬわけないでしょう」
「いやいや、打ちどころが悪ければ死ぬよ。たとえ飛び降りた瞬間じゃなくても、その後の救命処置が遅れれば出血多量とかで死ぬ場合もある。千種君、受け身とかとれないでしょ。運動神経悪そうだし」
「な、何を根拠に」
「うーん。線の細さと、あとは姿勢かな。運動出来る人にはそれ相応の筋肉のつき方とか、それに付随した姿勢の良さってものがあるけれど、君にはそれがない。女子中学生に五十メートル走で負けそう」
「な、何故それを!?」
「……え、本当なんだ。冗談のつもりだったんだけど……ごめん、ちょっとそれは引いちゃうかも」
心なしか僕から距離をとる神代さんだった。今僕を殺そうとしているのはあなただと言いたい。
何はともあれ。
「……もう、いいじゃないですか。現に今こうして生きているんだし。何事もなくて良かったってことで」
「それは違うよ、千種君」
——雰囲気が変わった。
これまでのどこかおちゃらけた空気は雲散霧消し、二人の間にピンと張り詰めた緊張感が走る。
ごくり。自分の唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。
神代さんは、長い指を一本立てる。
「私が聞きたいのは、そういうことじゃない。確かに君の言う通り、ここから飛び降りたところで死ぬことはないかもしれない。現に君は死ななかったわけだし……というか飛び降りてないし、それで良いっていうのも一理ある」
でもね、と彼女は続ける。
「そういう結果とか、事実とかは正直どうでもいいの。私が聞きたいのは——知りたいのは、君の心だよ。その結果を招き得るような行為に至った、君の心。つまりは
「——」
「もちろん、話したくないのなら無理にとは言わない。人にはプライバシーってものがあるからね。……あ、『不法侵入者がよく言うよ』って顔してる!」
バレていた。
嫌味なことを言われたはずなのに、神代さんは気にした様子もなくコロコロと笑う。
「……あなたは、よく笑いますね」
「そうかな? そうかも。逆に君はあまり笑わないね。でも、決して表情がないわけじゃない。今証明したみたいにね」
「……」
この人、存外頭の回転が早い。
一、二回生向けの講義を四回生で履修している事実から、少しばかり阿呆なのかもしれないと邪推していたけれど。
ちゃんと、考えている人だ。
「これは私の願望も入っているけれど——君は対話を諦めていない」
そうなの——だろうか。
僕は心のどこかで願っているのだろうか。
話したいと。伝えたいと。分かり合いたいと。
想っているのだろうか。
「——」
彼女を見る。
神代紗悠。ついさっき出逢ったばかりの少女。
僕は彼女のことを何も知らない。
何が好きで、何が嫌いで、何に喜び、何を哀しみ、何に憤り、何を楽しみ、何を諦め、何を叶えようと願い、何を成し遂げようとしているのか——何も知らない。
そして、それは彼女も同じはずで。
違うのは——彼女は躊躇わないということ。
話してみたい。知りたい。教えて欲しい。
自らの願望を言葉にすること。それを行動に移すこと。それらに一切、躊躇がない。
そんな彼女に触れたからだろうか。
「……最初に言いましたけれど。死のうとしていたわけじゃないっていうのは、多分本当です。僕はそんな覚悟も度胸も持ち合わせていない」
こんな独白めいた言葉が出てきたのは。
「……」
神代さんは何も言わない。
黙って、僕の言葉を待ってくれている。
「ただ……変わるかも、とは思いました。たとえ死ぬつもりじゃなかったとしても……こう、普段とは違うような……とんでもないことをすれば」
「変わるって、何が?」
「——『退屈』が」
かくして僕は語り始める。
物語と呼ぶにはあまりに稚拙で、モノローグと呼ぶにはあまりに独りよがりな、千種奏斗の中にしかなかったはずの心を。
長い夜になりそうだった。
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