第2話 『初対面はまず自己紹介から』
「よっこらセリヌンティウス」
僕よりも数段面白く、数倍教養もある掛け声とともに、彼女は僕の隣に腰を下ろした。
場所は戻って僕の部屋のベランダ、欄干の上である。ちなみに、僕の方もすでに座する体勢だ。足に限界が来てしまったのだから致し方ない。いや、そんなことはどうでもよくて。
「——」
今の気持ちを率直に述べよう——何だコイツ?
街をも眠る正子、突如として登場してきた得体の知れない少女。満面の笑顔で話しかけてきた少女。
前後の状況から推察するに、隣の部屋のベランダから飛び降りたことはわかるけれど、何故そんな行為に及んだのかが皆目見当もつかない。
——時系列を少しばかり遡ろう。
あれから彼女は、呆気に取られる僕を気にした素振りも見せず、スパイダーウォークのように外からアパートの壁を伝って欄干を飛び越え、再び部屋へと戻って来た。
中から、ではなく外からである。そこも何故。
そして戻ったのは、無論自身が飛んだ部屋——ではなく、その隣。すなわち僕の部屋である。
それも無断で。れっきとした不法侵入だ。
「スパイダーウォーク? ああ、セカンドステージね。ごめん。私、毎年サードステージからじゃないと見る気しないんだよね」
知らねえよ。
というか、確かファイナルステージにも似たようなギミックがあっただろう。
「スパイダークライムの話? 何を言っているのさ、青少年。『歩く』と『登る』とじゃあニュアンスが全然違うでしょ」
本日二度目の知らねえよ。
「……あの」
「ん? なに?」
たまらず声をかけると、彼女はこてりと小首を傾げてみせる。先刻と同じ、吸い込まれるような両の瞳が僕を捉えた。
「……いや、何もなにも、これって不法侵入ですよね? 警察呼びますよ?」
「おやおや、そんなことを言っていいのかな? 私のお父さん、警視総監なんだけど」
「そうですか。是非身内に恥を晒してください」
「待って待ってごめんごめんごめんごめん! 嘘だよ、普通のサラリーマンだよ! だから高速でスマホをタップするのは止めて!」
「あのですね、正当な理由なく他人の家に勝手に這入るのは住居侵入罪、立派な犯罪ですよ。五十年以下の懲役もしくは百万円以下の罰金です」
「気づかない範囲で地味に罰盛ってない!?」
「わかったら、さっさと自分の部屋に帰ってください。隣なんでしょう?」
「正当な理由ならあるよ」
「いや、ないでしょう」
「あるんだって。——そのうちわかる」
先ほどまでとは打って変わり、そう告げる彼女の瞳には真に迫るものがあった。決して敵意を向けられているわけではないのに——何も言えなくなってしまう。
真夜中。夜空に悠然と浮かぶ月。幻想的な自然光が、まるでスポットライトのように、彼女の姿を照らし出す。
「……」
猫みたいだ——というのが、彼女に対する第一印象だった。
切れ長でありながら、コロコロと表情を変える大きな瞳。
高く澄んだ鼻梁。
桜色の唇から紡がれる声は、鈴の音が鳴るように柔らかく繊細でありつつ、芯が通った力強さをも兼ね備えている。
緩くウェーブがかった茶髪のショートボブは艶やかな光沢を放ち、透き通った白い肌とともに夜空に明るく映えていた。
ルームウェアから伸びる長い手足をバタバタさせながら、彼女はカラカラと笑う。
「いやー、それにしても今日は星が綺麗だね! これは明日もいい天気になりそうだ」
「初対面で天気の話題って……芸がなくないですか」
「会話中にそんなこといちいち考えないよ。これが本当の能天気ってやつ?」
「違うと思います」
何が可笑しいのか、腹を抱えて笑い出す彼女。
いったい何なのだろう、この人は。
さっきから本当に掴みどころがない。
猫。
ひとしきり笑って満足したのか、彼女は目尻にうっすら浮かんだ雫を拭いながら、
「私は君と話してみたかっただけだよ、青少年」
「……さっきから気になってたんですけど、その『青少年』って呼び方止めてくれません?」
「? どうして?」
「何だか馬鹿にされているように感じます。見たところ、あなた、僕と同い年くらいですよね?」
「君が今二十一歳ならその通りだね」
「今年で二十一です」
「じゃあ一歳下だ。私早生まれなんだ。もしかして大学生? 私もこの辺の大学に通ってるんだけど」
「大学生、ですか」
「そ。この春から四回生。常にどうやって講義をブッチしようか考えてる、どこにでもいるただの女子大生だよ」
「世の女子大生に謝れ」
「明日……いや、もう今日か。今日も一限あるんだよねー。言語学概論。期末百パーセントだから休んでも支障はないけれど、私の友達、ノート写させてくれるような子じゃないんだよなー。……ん? どうしたの、そんな苦虫を丸呑みしたような顔して」
「丸呑みしたら苦味感じないでしょう……いや、別に」
静かに、今後二度と一限には出るまいと心に決める。
午前零時三十分。僕が大学生活において貴重な二単位を落とした瞬間だった。
密かに落胆する僕をよそに、彼女はそれこそ能天気に話を続ける。
「そっかそっか、『青少年』は嫌か。そういえば、まだ名前を訊いていなかったね」
「今更ですか」
「名前は大事だよ。うん。とても大事」
というわけで、と彼女。
「早速だけれど、君の名前を訊かせてもらえるかな?」
「……僕の名前は」
問われるままに答えようとして——ふと、言葉に詰まる。
「——」
何だ。何が起こった。どうして言葉が出てこない。ただ自分の名前を言うだけだろう。
「?」
口が開いたまま動かない。
二の句が継げないでいる僕に、隣から彼女の視線が突き刺さる。訝しげに細められた目が、次の言葉を待っている。
そして、はたと気づく——そうだ。
誰かに自分の名前を言うなんて、いったいいつぶりなのだろうと。
人生。僕の人生。自分の名前すら言わない人生。
名前って、どうやって伝えるんだっけ?
押し黙る僕を見て何を感じたのだろうか。
彼女は一転、明るい調子でパンと手を打った。
「ああ、もしかして人に名前を訊く時はまず自分から名乗れってこと? しょうがないなー。親しき仲にも礼儀あり、君が親しみを感じてくれているようで私も嬉しいよ!」
「え、いや、そういうわけじゃあ……」
否定の言葉は届かない。
そして、彼女はポンと胸を叩いた。
「それじゃあ不肖私から。私の名前は
さあ、次は君の番だね。
白い指先が、僕の目の前に差し出される。
柔らかそうな掌を見つめていると、自然と言葉が口をついて出た。
「……僕の名前は
「予想以上にロマンチック!」
天気の話題に引っ張られただけだ。特に深い意味はない。
だってのに、大きな瞳を爛々と輝かせる彼女——改め、神代さん。
神代紗悠。それが、彼女の名前。
「さてさて。お互い自己紹介も済んだことだし、そろそろ本題に入ろうか」
「本題?」
さっき出逢ったばかりだというのに、僕たちの間に本題なんてものが存在するのだろうか。
思い当たらず首を傾げていると、神代さんは頬杖をついてニヤリと笑う。
「もちろんあるよ。いつまでも天気の話ばかりしているわけにはいかないでしょ。天気の話ならぬ、話の転機ってね」
「もう一度言ってもらえます?」
「二度は言いません。それはそうと青少年、改め千種君」
それから、神代紗悠は。
「——どうして君は、死のうとしていたのかな?」
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