神のもちぐされ

水巷

第1話 『プロローグ』

 ベランダの欄干を『登ってはいけないもの』だと認識するようになったのは、いったい何歳の頃からだっただろう。


 尻の下の手摺、その硬さと冷たさを寝巻き越しに感じながら、ふとそんなことを考えた。


 大学合格と時を同じくして実家を飛び出し、遥々引っ越してきた木造アパート。家賃の安さだけが唯一の取り柄だったコイツとの付き合いも、今年で三年目になる。


 新生活のトキメキなどすでに失われた。

 時が経ち、メッキが剥がれた。木造だけど。


 付き合って三年ともなれば、恋人であれば今後の関係を方向づける過渡期であろう。俗に言う『三年目の壁』である。コイツは無機物だけど。


 このまま関係を続けるのか——それとも別々の道を歩むのか。


 どちらを選択したところで、多少なりとも変化は免れない。


 変化。変わり、化ける。


「……ふっ」


 どちらにしても、僕には無縁極まりない言葉たちだ。苦笑も漏れるってものだろう。


 吹き抜けた一陣の風が、風呂上がりの火照った身体から緩やかに熱を奪っていく。ガタピシと震えるアパートの柱。相変わらず嫌な音だ。そういえば、コイツの築年数はいくつだったか。正確には覚えていないけれど、僕よりも遥かに歳上であることは間違いない。


 風を感じて。身体が冷えて。音が聴こえて。


 たったそれだけのことで、僕がこの世界に存在しているのだと思い知らされる。


 ああ——熱。


 熱だ。


 このまま奪われて、奪い去られて、奪い切られて、すべてが消えてしまったら。


「——」


 センチメンタルを気取ってみたけれど、何だろう、どうにも上手くないというか、座りが悪い。欄干の上なら当たり前か。


 上空を見上げる。


 それにしても、今夜は月が綺麗だ。別に他意はない。『月が綺麗』は『月が綺麗』でしかない。


 そう思えているのなら、今日の僕は大丈夫だ。


 今日の僕が大丈夫なら、きっと明日の僕も大丈夫だろう。何が大丈夫なのかはわからないけれど、きっと大丈夫なのだ。世界はそういう風に出来ている。


「明日……明日か」


 確か、明日は一限から講義が入っていた。言語学概論。一、二回生向けの基礎科目。出席をとらない期末レポート百パーセント評価の講義なので、正直休んでも構わない。


 とはいえ、休んだところで講義内容を写させてくれる友達などいない僕は、必然的に出席せざるを得ないわけで。


 小学生の頃から薄々勘づいていたことだけれど、とかく学舎という空間は孤独な存在に対していたく厳しい。世界はそういう風に出来ている。


 ガラス越しに自室の目覚まし時計を見やれば、時刻は零時を回っている。明日は今日になっている。


 そろそろ寝ないと、明日、もとい今日の一限に間に合うまい。


 さっさと意識を手放そう。長い夜は嫌いだ。かといって朝が好きかというとそうでもない。


 自室に戻ろうと腰を上げる。そして、『よっこらセックス』のリズムとともに欄干の上に立ち上がった。


 欄干の上に立ち上がった?


「——」


 自慢じゃないが、僕の運動神経はあまり良いとは言えない。本当に自慢じゃないな。体力テストは甘く見積もって中の下レベル。五十メートル走ならおそらくその辺の女子中学生に負ける。小学生とは……流石にイーブンだろう。そうだといいな。


 そんな僕が、今、幅五センチの手摺の上に立っている。無意識に——流れるように自然な動作で。奇跡的なバランス感覚だ。十秒と持つまい。


 何だか良い気分になってきた。何だろう、この得体の知れない万能感は。まるで世界のすべてを手中に収めたかのような。


 今の僕なら、どんな無理難題でもやってのけられそうな気がする。そう、例えば——、


「……落ちてみるか?」


 眼下、二年間ですっかり見慣れてしまった街が広がっている。午前零時の街。一日の活動を終え、深い眠りに落ちた街。


 そんな街を叩き起こすように——この場所から、飛び降りてみたら。


 少しは——変化があるだろうか。


 変わり、化ける。


 僕とは無縁の——言葉たち。


「……そんなわけ、あるか」


 馬鹿馬鹿しい。きっと寝惚けているに違いない。


 足もそろそろ限界だ。


 さっさと床に就こう。そしていつも通り、代わり映えしない今日を迎えて——、


「——」


 刹那——だった。


 顔の真横、否、隣室のベランダとを隔てる衝立の向こう側。


 捉えたのは一陣の風と、震えるアパート。


 そして——女の子。


 一人の女の子が、隣の部屋からベランダを飛び越え、夜に沈む街へと——その身を投じて。


「——ぁ」


 すべてがスローモーションだった。


 無情にも時を刻み続ける現実が、今この瞬間だけは、僕を置いていかないでくれているように。


 でも、そんなものはやっぱりまやかしでしかなくて。


 僕の声にならない声を置き去りに、次の瞬間には、彼女の姿は地面にあった。一切の音がしない、綺麗な着地だった。


 そして——そして。


 眼下の彼女はゆっくりと振り返り、頭上を見上げた。視線の先にいるのは、間抜け面で突っ立っている僕。


 ベランダ越しに、二人の視線が交錯する。


「……」「……」


 見つめ合うこと数秒。

 体感では何時間が経過しただろうか。


 やがて、彼女の口元はみるみる弧を描いていき——、


「——やあやあ、私の方が一歩早かったね、青少年! でもこれあんまり楽しくないから、止めておいた方が良いと思うよ!」


 そう言って、彼女は笑った——花が咲くように。


 月が綺麗な夜だった。

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