思う気持ち

 十時を回った頃に目が覚めた。両親はすでに仕事に出ていて、家には僕だけが取り残されている。僕は洗面所で顔を洗い、髪形を整える。鏡の中に映る顔を眺めると、顎の下あたりに、僅かに髭を剃り残している部分があった。昨日まではなにも感じなかったであろうその生え残った髭を、今の僕は気にしている。そんな事実に、思わず笑ってしまう。そして、こんな風に自然な笑みを浮かべていることがなんだか信じられなくて、さらに輪をかけるように笑みが漏れ出る。鏡の中の僕も、同じだけ笑みを浮かべている。

 正午が過ぎた頃、僕は家を出て、車に乗り込んだ。外は風が強く、一面灰色の雲がかかっている空は、ところどころでその濃淡を変えていた。薄暗く重苦しい空模様だったけれど、それはなんとなく、今日という日にふさわしい天気だと思えた。

 折原が昨夜のうちにメッセージで教えてくれたその場所には、三十分ほど車を走らせると到着した。広い駐車場に車は数台ほどしか停まっていなかった。車を降りた時点で、まったくの手ぶらで来てしまったことに気がついたけれど、なにか気の利いたものを扱っているような店も、周りにはなさそうだった。

 ダウンジャケットのポケットに手を入れて、家を出たときよりもさらに強く吹きすさぶ風をやり過ごすように足を進める。不思議と、緊張感のようなものを覚えることはなかった。さらに言えば、現実感すら希薄だった。気持ちの置き所が見つからないまま、僕は目的地へと近づいていく。

 そして、たどり着いた。

 小町が眠る、墓の前に。

 綺麗に手入れされた御影石に深く刻まれた文字。そこに焦点を定めると、僕の中に少しずつ広がるものがあった。その気持ちを直截的な言葉にするのは、とても難しい。けれど、どうにか置き換えるとすれば、それは実感とでも呼ぶべき感覚だった。

 僕は今、ようやく、十年の歳月をかけて、花家小町がこの世にいないことを実感した。

「小町」

 墓石に向かって、僕は小さく名前を呼ぶ。冷たい風が吹いて、悲しげな音を残していった。

「遅くなって、ごめん」

 なにか言葉を続けないといけない。そんな焦燥感が、凡庸な言葉を吐き出させた。けれど、僕は小町に伝えたいことなんてなに一つなかった。もうこの世にいない彼女になにかを伝えたいだなんて、そんなことを考えるのは、僕にとって身を切るに等しい行為だったからだ。

 視線を落とすと、花が供えられていた。一本の茎に、白色に近い紫色の小花をいくつも咲かせた、どことなく質素な感じのする花。

 僕は、ゆっくりとその場にしゃがみこんだ。すると、冷たく吹く風に乗せられて、ほんの僅かな香りが鼻に届いた。

 薄荷の匂いだった。

 小町が常に纏わせていた、あの凜とした匂いだった。

 駄目だな。

 ある意味では、覚悟を固めたはずなのに。彼女と対面するからには、堂々と、クールに振舞おうと決めていたのに。僕はどうしても、心を鎮めたままではいられなかった。昨日の夜からずっと、鏡のような姿を維持していた湖面は、絶え間なく生まれる波紋に揺さぶられていた。これまでに何度となく向かい合い、対話し、やり過ごし、押さえ込み、宥め賺し、突き放し、執着し、絶望し、最後まで縋りついた、小町への思い。一緒に過ごした時間の、その記憶。

 それらが今、僕の手を離れゆこうとしている。僕だけのものでは、なくなろうとしている。

 そして僕は、とうとうその声を聴いてしまう。

 ――伊勢君。

「小町」

 声が震え、視界が揺らぐ。足元に、僕の頬を伝った水滴が小さな染みを作った。

 十年という歳月をかけた。自分自身の中に、もう一人の人格を作り出した。そうまでして思い抜き、悲しみ抜いてもとうとう流せなかった涙が今、なににも遮られることなく溢れ出る。僕は、ようやく泣くことができた。

 手がひとりでに左胸へと伸びてしまうほど、心が痛い。けれど、それはどこか予定調和的な痛みだった。

『伊勢君って、とても静かに泣くのね』

 いつか、小町が僕に向かってそう言った夜があった。その言葉の意味を、ようやく実感できたような気がする。

 そしてその瞬間、僕の中で腑に落ちるものがあった。

 喪失感が僕を捕らえていたのではない。僕の方が喪失感を捕らえたまま離さなかったという、ただそれだけのことだったのだ。

 きっと僕は、とっくに小町の死を受け入れるだけの準備を済ませていた。けれど、その事実に気づくことを、ずっと恐れていたのかもしれない。

 孤独の裡にその死を悼み、思い出を思い出すことなく封じ込めておく。そうすることで僕は、花家小町という存在が、彼女の存在しないこの世界に混じり、希釈されてしまうのを防ごうとしていた。

 それはいつしか哀悼ではなく、純粋に小町という存在そのものを思う行為となっていた。

 目を開ける。睫毛にしがみついた涙を手の甲で拭って、忙しなく吹く風に揺れるハッカの花を見つめた。胸の奥の空洞を、冷たい空気が容赦なく満たした。にもかかわらず僕は、長い冬を終えた雪融けの朝を迎えたような気持で自然に笑うことができた。

 あの頃の自分に、こう伝えてやりたい。

 小町を求める気持ちと、小町を思う気持ち。最後に残ったのは、後者の方だった、と。

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