再会
「もしかして、伊勢君?」
小町の墓を後にして、車に乗り込もうとしたとき、後ろから声をかけられた。突然のことに驚いて振り向くと、そこにはベージュのトレンチコートを着た、僕とそう歳の変わらなさそうなボブカットの女性が立っていた。彼女は僕を見ていた。僕も彼女から目を離せなかった。そして僕はほとんど反射的に、長い間繰り返してきた習慣をなぞるように、仮面を装着しようとした。けれど、視線を交わしているうちに、そうする必要はないと思えた。
僕は、この人を知っている。
記憶の奥を掘り起こし、一つずつ手にとっていく。実際にどれくらいの時間がかかったのかはわからない。しかしとにかく、交差する互いの視線が逸らされる前に、その正体に思い当たった。
「えっと、もしかして、小曽根なのかな」
「ピンポン」
久しぶりだね、と小曽根夕菜は笑った。耳に覚えのある、懐かしい声だった。けれどその笑い方は、僕の記憶の中の彼女の笑い方とどこか違っているような気がした。
「花家さんに会いにきたんだ?」
ていうか、それ以外にここに来る理由なんてないよね、と彼女はマイペースに話を完結させてしまう。
「もう、花家さんには会ったんだね」
「うん」
「伊勢君、車で来たの?」
「そうだよ」
「あたし、バスで来たんだ。よかったら、駅まで乗せてってくれない?」
随分と急な提案だったけれど、不思議と拒否的な気分にはならなかった。
「別にいいけど」
「じゃあ、ちょっと待ってて。あたしも花家さんに会ってくるから」
そう言い残して、小曽根夕菜は小町の元へと向かっていった。その背中を見送ってから、エンジンをかけ、シートを倒し、眼を閉じる。FMラジオからは、僕の知らないポップスが流れていた。
三十分ほどすると、小曽根夕菜が戻ってきた。彼女は助手席側の窓をコンコンと叩いて、それから僕がシートを元に戻している間に中へと乗り込んできた。
「ごめんね、久しぶりに会ったのにいきなり図々しいお願いしちゃって」
「気にしなくていいよ」
小曽根夕菜がシートベルトを止めたのを確認してから、僕はゆっくりと車を走らせた。
「なんだか、伊勢君が車を運転するのって、意外だね」
「普段は通勤でしか使わないけどね」
「伊勢君、今なんの仕事しているの?」
「出版社の制作部で働いてるよ」
「本とか作ってるってこと?」
「簡単に言えばね」
小曽根は? と僕は質問をぶつけてみる。そんなさりげないやりとりを、仮面を被らないまま両親や折原以外の誰かと交わすことは、本当に久しぶりのことだった。
「私は、簡単に言えばギシを作ってるかな」
「ギシ?」
僕は正面を見据えながら、ギシという響きを頭の中で変換しようと試みたけれど、上手くいかなかった。隣では小曽根夕菜が持っていたバッグを開いてなにかを探していた。そして赤信号で車が停まったタイミングで、「はい」と言って僕にカードのようなものを手渡してきた。それはどうやら名刺のようだった。
【株式会社 マキ義肢製作所 義肢装具士 牧 夕菜】
牧夕菜。
その名刺に記された文字列から、僕はしばらく目が離せなかった。隣から「伊勢君、信号」と声が聞こえた。顔をあげると信号は青に変わっている。僕は名刺をドリンクホルダーにしまい、アクセルを踏んだ。
「苗字が変わってるけど」
と、僕はとりあえず最も気になったことから訊ねてみた。
「うん。今年の春に結婚したんだ」
「この会社の経営者と?」
「の息子と。一応、次期社長」
だからあたしは一応次期社長夫人、と牧夕菜は軽い調子でそう続けた。
それから彼女は、高校を卒業してからのことを僕に話してくれた。保育系の専門学校を出て、児童養護施設に就職したこと。そこを二年で辞めて、また別の専門学校に入ったこと。在学中に現在の結婚相手と出会い、そのまま同じ職場に就職し、付き合うようになり、結婚に至ったこと。僕は車を運転しながら、牧夕菜の話に相槌を打った。そして、時間の流れがもたらす変化というものを強く思い知った。そうやってひとしきり自分のことを語ってからも、僕がこの十年間をどのように過ごしていたのかを訊ねたりはしなかった。それは間違いなく、彼女の気遣いだった。
二十分ほど車を走らせると、駅についた。決して広くないロータリーには僕の車の他には一台も停まっていなかった。
「ありがと。すぐに着いちゃったね。バスだと四十分くらいかかったんだけど」
牧夕菜はシートベルトを外したものの、しかしそこで動きを止めてしまった。その理由は、僕にも見当がついていた。だから、オーディオから流れる音楽が埋める沈黙を破るべく、僕は意を決して口を開いた。
「今日、初めて小町に会いに来たんだ」
牧夕菜が、僕の方を見ているのが分かった。けれど、僕はいつまでもハンドルから手を離せず、じっとフロントガラスの向こうから視線を外せなかった。
「そっか。そうじゃないかなって、思ってた」
「……小曽根は、何回か来たことがあったんだ?」
新しい苗字が上手く口に出来ず、僕は呼び慣れていた旧姓で呼んでしまう。しかし彼女は特にその呼び方を気にする様子はなかった。
「何回かどころじゃないよ。あたしもう、数えきれないくらい花家さんと会ってる」
「数えきれないくらい?」
「うん。あたし……」
牧夕菜は口ごもり、視線を伏せた。けれどそれは一瞬のことで、彼女はすぐに顔を上げて、僕と同じように正面を見据えながら、はっきりとした口調で続けた。
「花家さんが死んじゃってから、やっと心から好きだって思えるようになったの」
それは苦々しい懺悔のようでもあり、赤裸々な思いの表明のようでもあった。その複雑で繊細な告白を受けて、僕の心は少しだけ波立った。けれどそれはすぐに治まった。牧夕菜がどのような女の子で、どのような思いを抱いて小町を見つめていたのかを、はっきりと思い出した。
「そっか」
と僕は頷いた。
小町は十八歳という歳でその生涯を終え、時の流れと生者の世界から解放されたことにより、ある意味では不変の存在となった。同時に、牧夕菜の中で築き上げられた理想像は、変化に見舞われることも、劣化に曝されることもなくなった。永遠にその理想像が脅かされず、守られるという事実と引き換えに、彼女は自分の気持ちと向き合うことができたのかもしれない。
かつての複雑な憧憬が、単純な好意に変化するということ。それを向ける相手が、もうこの世には存在しないということ。それはとても皮肉な話だ。
けれど、その一方で牧夕菜は救われたのかもしれない。
「小曽根」
「なに?」
「僕がこんなことを言うのも、おかしな話かもしれないけどさ」
「うん」
「小町と会ってくれて、ありがとう」
牧夕菜もまた、僕や折原と同じように、小町の死を悼んでいた。その事実に、僕は不思議なあたたかさを感じた。
「伊勢君」
名前を呼ばれて、僕は左に座る牧夕菜を見た。
「うん?」
「これからも、花家さんに会ってくれるよね?」
牧夕菜は、とても真剣な目つきをしていた。
もしかしたら。
あのとき、小曽根夕菜はこんな目で花家小町を見つめていたのかもしれない。
「もちろん」
僕は頷いた。今もなお小町を思っている目の前の友人は、くすぐったいのを我慢するような、懐かしいあの笑顔を見せた。
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