8
夢のあと
いったいどこまでが僕の見た夢で、どこからが能動的な追想だったのだろう。
慣れない高速道路での運転に注意を払いながら、僕は最低限の思考だけを働かせる。見据える先では、オレンジ色の道路照明が延々と連なってぼんやりと進路を示している。
走行車線を一定のスピードで走りながら、時折出くわす大型トラックを避けるために追越車線に移る。そしてトラックと車間が空いたことを確認して、再び元の車線に戻る。家を出てから、そろそろ一時間が経とうとしていた。インパネのデジタル時計を確認すると、二十三時を過ぎた頃だった。
折原と食事をしたあの日の夜、僕は花家小町の夢を見た。とても長い夢だった。目が覚めた僕は、勤め先に連絡を入れて、体調が悪いからしばらく休みを貰いたいと伝えた。仕事柄、特に忙しい年末の時期ではあったけれど、強引に押し通した。それから、僕は再びベッドに潜り込み、目を閉じて、小町のことを思った。
僕は職場に休みの連絡を入れてからの二日間、ただひたすら、寝食を忘れて小町と過ごした日々を回顧した。そうすることが辛いことだとか、あるいは辛さにつながる行為だとは、まったく思わなかった。そうやって、彼女との出会いから、最後に会ったそのときまでを、追想した。思い出は、驚くほど確かに、呆れるほど鮮明に、僕の中に息づいていた。
けれど、それも当然のことかもしれない。
それは僕がこの十年間、必死に守り続けた記憶で、囚われ続けた思いだから。
花家小町は、あの誰より美しい僕の恋人は、もうこの世にいない。追想の中で彼女を喪ったとき、僕は強く瞼を閉じた。もしかしたら涙が零れるかもしれないと思った。けれど、当然のように瞼のふちは乾いていた。最後に泣いたのがいつのことだったか、僕はまるで思い出すことができない。
そして、休み始めてから三日目の朝、僕はようやく、のろのろと立ち上がり、洗面所に向かうことができた。三面鏡の真ん中に映った僕は、とても酷い顔をしていた。髪は脂でべたついていて、頬はこけ、乾燥して白い粉をふき、口元には三日分の無精髭が散らばっていた。
この十年間、僕は数え切れないくらい何度も喪失感に絶望させられた。僕はそれに搦め捕られていた。喪失感は昏い影となり、常に僕の体、あるいは心に巣食っていた。それが僕を捕らえない日はなかった。そしてある時点より、喪失感は僕の一部として存在するようになった。
けれど。
このとき、鏡に映る酷い顔をした自分自身を眺めても、その昏い影の気配を、僕は感じることができなかった。十年間、ある意味では誰よりも、なによりも僕に寄り添っていた、あの虚ろな気配。それを、見つけ出すことができなかった。
なにかの間違いだと思った。僕は目を見開いて鏡の中の僕自身を覗いた。しかし、どれだけ目を凝らしても、そこには喪失感を欠落させた僕が存在しているだけだった。喪失感の代わりに空白を抱えた、ひどく頼りない僕が。
あれほど僕を苦しめていた影が、今、その気配を感じさせないことに、僕はあろうことか動揺してしまっていた。
どうしてこんなことになってしまったんだろう、と僕は考える。
理由はすぐに思い当たった。
小町。
彼女の夢を見てしまったから。彼女との日々を、思い返してしまったから。
いつからか僕は、彼女の存在、そして二人で過ごした時間を思い返すことを、自分に禁じるようになった。一度過去に意識を浸してしまえば最後、その存在の強さに、記憶の眩しさに押しつぶされてしまう気がしたからだ。
僕は、逃げていた。これ以上傷つきたくないから。苦しみたくないから。そんな思いで、喪われたものと、喪われずに在り続けるものから、逃げていた。誰とも、どんなものとも向き合おうとせず、殻の中に閉じこもっていたのだ。十年間、ずっと。
それをあっけなく壊してしまったのが、折原の言葉だった。
『花家小町の命日から、もうすぐ十年だ』
『頼む。小町に、会ってやってくれよ』
小町がこの世を去ってから、折原がこのような形で彼女の名前を口にするのは初めてだった。
僕は、鏡の中の自分の姿を思い出す。不潔で、酷い顔をした自分自身。昏い影をなくした、頼りない姿を。
今しかないのかもしれない。強くそう思った。
僕は、ずっと蔑ろにしてきた時間という概念に背中を押されたような気持ちで、心を決めた。髭を剃り、シャワーを浴び、どこかで貰ってきたままほとんど使われていない男性用の保湿液を顔に塗って、髪の毛を乾かした。そしてテーブルの上で充電していたスマートフォンを手に取り、二件のメッセージを送った。すると、片方は五分と置かずに返事があった。僕はその内容を確認してからダウンジャケットを着込んで、車に乗り込んだ。
そして、今に至る。運転することに少し疲れると、目についたサービスエリアに寄った。コンビニでコーヒーとクロワッサンを買って、イートインスペースで食していく。
白い壁に囲まれた、蛍光灯が煌々と照った店内で、僕はスマートフォンを取り出した。ディスプレイの右上の時計が二十三時五十八分を示している。少しずつ、心臓が弾み始める。けれど、僕は決して狼狽えないでおこうと自分に言い聞かせ、ディスプレイの隅の小さな表示から目を逸らさずに見据え続けた。そうすることができたのは、間違いなく彼女の存在を夢に見て、彼女との日々を追想したからだった。
0が三つ並ぶ。日付が変わり、十二月二十四日になった。暦の上において、小町が死んだあの日から、十年が経った。
僕は目を閉じて、深く息を吐いた。そうしたところで、自分の中からなにかが溢れるようなことは、やはりなかった。僕は驚くほど冷静に、小町の死と、年月の経過を受け止めることができた。その事実は僕に安堵とショックを与えた。相反するような複雑な思いを抱えたまま、僕は不自然に明るいイートインスペースを後にした。
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