あなたがいるから

 長い沈黙の末に、小町は僕の腕からそっとすり抜けて、胸元から離れていく。そして、まっすぐに僕を見上げた。

「伊勢君に甘えるのは、これで最後にするわ」

 ああ、そうか。

 僕の知らないところで、既に小町は僕に甘えていたんだな。

 きっと、甘えとは寄りかかることではなく、見守りと容認を指していたのだ。結果として僕が戸惑い、心をすり減らせることを承知の上で、小町は自らの意志を押し通そうとしている。

 そうだとしたら、『甘えていいかしら』と口にした時点で、小町の甘えは始まり、そして完結していたのだろう。

 もう一度、小町を抱きしめる。

「ねえ、小町」

「なに」

「勇気づけるようなことを言ってくれないかな」

 情けないことを言っている自覚はある。けれど、虚勢を張っているのは、彼女だけではなかった。

 だから、僕は求める。不安に搔き消えそうな覚悟を奮い立たせてくれる、なにより強い言葉を。

 この世でただ一人、花家小町だけが口にできる、無敵の言葉を。

「あなたがいるから、私は母のもとへ向かえる。あなたがいるから、私はここに帰ってこられるのよ」

 そう言って、小町は顔を上げて僕の頬にキスをした。それは、僕たちの抱える不安や心細さに寄り添うような、優しく仄かなキスだった。

「私が最後に選ぶのは、伊勢君、あなたよ」

 僕が小町の虚勢を見通したように、小町もまた、僕が望む言葉を知っていた。

 最後に選ぶのは、僕。

 その断定的な宣言が、僕たちの虚勢に実体を与える。

 小町は、意志を示した。それが不完全な覚悟に基づくものであったとしても、僕はそれを見届けなければならない。この世でたった一人の、証人として。

「ポルトガル土産って、なにが有名なのかな」

 と僕は言った。とても自然に、そう口にすることができたと思う。

「タイル」

 と小町は言った。

「タイル?」

 ピンとこなかった僕に、胸に顔を埋めた小町が笑う気配がした。

「きっと伊勢君はそんなものを求めてはいないでしょうから、無難に缶詰やチョコレートなんかを買ってくることにするわ」

「うん」

 おやすみなさい、と僕の胸の中で小町が囁いた。おやすみ、と僕も言った。冷え込みが勝り始めた寝室の中で、僕たちを包む布団の中だけが、とろけそうなほどに暖かかった。


 小町がポルトガルに発つことを僕に打ち明けてからも、僕たちの間に取り立てて大きな変化はなかった。冬が深まり、受験ムードも最高潮まで高まっていく中、僕たちは学年末テストをどうにかこなした。

 小町は、去年の夏もそうしたように、長期休暇への突入を待たずに日本を発つようだった。ただし今回は、僕にその旨をあらかじめ教えてくれた。折原にも、事情こそ伏せているもののしばらくはポルトガルで過ごすことを伝えているようだった。

 十二月十九日の日曜日、僕は日本を発つ小町を見送るためにわざわざ予備校の授業を途中で切り上げた。案の定、彼女はそのことにあまりいい顔をしなかった。

「受験勉強の追い込みを投げ出してまで見送られるほど、私は愛されていたのね」

 黒いトレンチコートを着て、黒いマフラーを巻いた、大人びた装いの小町が白い息を吐く。僕たちは、並んで駅に向かって歩いていた。僕の手には、彼女の黒いスーツケースが握られている。

「小町だって、こんな大事な時期に日本を抜け出して会いに行くほど、お母さんのことを愛しているんじゃない?」

 そうやって、意趣返しのように冗談めかして口にするのは、少しだけ勇気が必要だった。

「それもそうね」

 そう言って、小町は穏やかに笑ってみせた。その笑顔に、僕は救われるような気持ちになった。

 小町は、これから電車と新幹線と特急を乗り継いで空港に向かい、二十時三十分に発つ飛行機に乗る。途中でパリにあるシャルル・ド・ゴール空港で乗り換えてから、リスボンのポルテラ空港に現地時間の昼前に到着する。さすがに空港までついていくわけにはいかず、僕はこの駅で彼女を見送ることにした。本当は新幹線の乗り場くらいまでは一緒にいたかったけれど、僕はできるだけ気丈に振る舞いたかった。

 早ければ年内に、遅くとも冬休み中に帰国するという。どんなに長くとも二週間ほどの別離なのだからと、僕は何度となく自分に言い聞かせた。

 新幹線の駅へと向かう電車が到着する五分前になると、小町はコートのポケットから切符を取り出した。僕に預けていたスーツケースを転がし始めて、ゆっくりと改札へ足を進める。僕は、せめて入場券だけでも買ってホームで見送ろうかと思ったけれど、そんなことをしたら最後、湧き立つ寂しさを抑えられず、彼女のあとを追いすがってしまいそうだった。

「気をつけてね」

 僕はその背中に、短い言葉を投げかける。彼女は人通りの少ない改札の前で足を止めて、僕の方を振り返る。そして、口元を下唇のあたりまで遮っていたマフラーを人差し指で少しだけ下げてみせる。

「伊勢君」

「うん?」

「しばらく会えなくなるんだし、最後にキスでもしておく?」

 涼しい顔で僕を見上げながら、小町はそんな魅力的な提案をする。僕は、もう少しで気恥ずかしい笑みが漏れてしまいそうになるのを堪えて、これまでに何度も彼女と触れ合わせてきた唇を結ぶ。

「それは帰ってきてからの楽しみにとっておくよ」

 僕がそう言うと、小町はふうん、と不敵な笑みを浮かべた。それから真剣な表情を作り、じっと僕の目を見つめる。

 僕は不思議と、そのとき彼女がなにを考えていたのかがわかった気がした。

 やがて小町は何度か瞬きをしてから、ごく自然に引き締まった、密やかな覚悟を感じさせる表情で僕を見上げて、

「行ってくるわ」

 クールに、そう言い放った。

「行ってらっしゃい」

 僕が手を挙げると、小町は控えめに左手を挙げて応えてくれた。

 僕は、まっすぐに伸びた小町の背中と黒いスーツケースが改札を通過し、ホームに向かうエレベーターの中に消えていくまでを見送った。そして、小町を乗せる電車が到着して、電光掲示板からその表示が消えたのを見届けてから、駅をあとにした。

 それが、僕と小町の間で交わされた最後のやりとりだった。

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