7
甘えるということ
小町の誕生日以降、日々はあわただしく過ぎていった。僕はアルバイトを辞めて、予備校に通い始めた。周囲より少し遅れをとってしまった格好になるけれど、ようやく受験生として本腰を入れて勉強に取り組む環境を整えたというわけだ。
僕の生活リズムも以前までと比べてずいぶん変化してしまったけれど、それでも受験勉強の合間に小町と会うことは忘れなかった。
ちなみに小町は、このあたりで一番名の知れた外国語大学を志望しておきながら、僕と違って予備校や塾なんかには通っていなかった。にもかかわらず、模試ではしっかりとA判定を貰えているのだから、大したものだと思った。
そして、受験勉強にかまけて(と言うのが彼女の言い分だった)デートをおろそかにすることを、小町は許さなかった。デートは二週間に一度、土曜日に実施すると決めた。たとえ平日であっても、僕が予備校に行かない日は一緒に図書室で勉強をしたり、気分転換と称して喫茶店で話しこんだりしていた。言ってしまえば、それまで僕がアルバイトに励んでいた時間が予備校の講義にそっくり入れ替わっただけのことで、その上去年までと違って今年は同じクラスであることを考慮すれば、僕たちが密に過ごす時間というのは、それ以前よりもむしろ増加傾向にあった。
このまま順調に入試を突破すると、僕たちは別々の大学に通うことになる。あえて口には出していないけれど、小町は在学中に僕と少しでも一緒に過ごしたいと考えているのかもしれない。勿論、その点については僕も同じだった。だから、予備校から出される大量の課題に追われながらも、小町と会う時間は必ず確保した。
そうやって、あわただしくも充実した日々を送りながら、僕は時折考える。誕生日の夜に、小町が僕に向けて放った言葉たちを。
――私は変わらなければならないわ。
誕生日の夜、小町は僕にそう言った。意志が宿った、疑いようもなくたしかな宣言だった。
彼女はもう、母親の手から離れてしまっている。必ずなにかしらのアクションがあったという誕生日というタイミングにも、メッセージ一つ寄越されることはなかった。母親から、娘である自分に与えられるものはもうなにも残されていないのだと、少なくとも小町はそう考えている。
そして、小町は僕に一つの願いを託した。
――もう少しの間だけ、伊勢君に甘えていいかしら。
僕は、誠意をもって了承した。決して小町の前では口に出せないけれど、あのとき僕は、嬉しかった。そうやって、小町から甘えを向けられるということは、僕にとって光栄で、誇らしいことだったのだ。
あれから、小町の口から母親についてなにかが語られることはなかった。少なくとも表面上は思い悩むような様子もない。
このまま、僕たちが一緒に過ごしていく中で、母親に対する感情が生み出した傷が、自然に癒えていけばいい。僕はそう願っていた。
けれど、そんなのはただの虚しい願望に過ぎない。
小町から決定的な言葉が聞かれたのは、彼女の誕生日から半年以上が経った十一月最後の土曜日だった。
その日、僕たちは小町の部屋で過ごしていた。夜を迎え、互いの思いを確かめあい、羽毛布団と毛布を重ねたその中に二人して潜り込んで、眠りにつこうとした、そのとき。
「来月、母に会いに行くわ」
なんの前触れもなく、仰向けになって天井を見つめたままの体勢で僕の方を見ることもせず、小町はそう言った。暗がりの中で薄く浮かぶ彼女の顔は真剣な鋭さをたたえていて、まっすぐに伸びた綺麗な鼻筋は、まさにその象徴のように映った。
「とうとう、決めたんだね」
僕がそう言うと、小町は寝返りを打って、こちらを向いた。けれど、その表情からはどんな意思も、感情も、読み取ることができなかった。
「タイムリミットが、来てしまったのよ」
タイムリミット、という殺伐とした響きに胸騒ぎを覚える。それはこの場にふさわしくない言葉だと思った。
「どこで会うの?」
「ポルトガル。毎年、あの人はリスボンの別荘でホリデーを過ごすの。だから、そのときなら確実に会うことができる」
その言葉を耳にして、僕は小町が口にしたタイムリミットという言葉の意味を理解する。
なにかを口にしなければいけないと思った。小町はきっと、僕の言葉を待っている。
あの誕生日の夜から、僕は決意を固めようとしている小町をずっと見守ってきた。証人になると、約束した。だから、彼女が一歩を踏み出そうとしているのなら、その背中を押すべきだ。
そうやって、僕は自分に言い聞かせて事実を定着させようとした。けれど、偽れない本音が強い意志を宿して僕を支配していく。
「小町」
「なに」
僕は目を閉じて、彼女らしい素っ気ない反応を聞き届ける。そして、小さく息を吸いこみ、
「行かないで」
と告げた。
「無理に会いに行く必要はないよ。僕と一緒に、クリスマスを過ごそう」
そう言って、僕は小町の肩を抱いてこちらに引き寄せた。温かい体温が、冷たい髪の手触りが、柔らかく滲んだ薄荷の匂いが、離しがたい気持ちをより強くしていく。
きっと、小町はまだ、母に会う覚悟が定まっていない。だから今、こうして僕に虚勢を張っている。
けれど、タイムリミットが迫っていた。ホリデーのシーズンが過ぎたら、彼女の母はまた世界中を忙しなく回るようになるのだろう。会える保証のない日々が、揺らぎ続ける覚悟と向き合う日々が、再び小町を呑みこんでいく。
その事実が、彼女の焦燥を駆り立てている。
今こそ甘えてほしい。僕は、心からそう願う。
自らが定めた決意に囚われる必要はない。僕と一緒に過ごすことで、僕だけを思うことで、もう一方の思いに蓋をして、忘れることができるのなら、いつまでも僕から目を逸らさないでほしい。そうすることを甘えと呼ぶのであれば、いくらでも甘えてくれればいい。僕は決して咎めはしないから――そう、伝えようとした。
けれど、できなかった。そんな言葉を彼女は求めていないのだと、直感してしまったからだ。
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