Happy Birthday⑨
「初めてキスをしたあの日にも思ったけれど、伊勢君って、とても静かに泣くのね」
そう言って、小町は優しく僕の背中に手を回した。力任せに抱きしめた僕のそれとは正反対の、まるで慰撫するかのような抱擁だった。カットソーの上から、彼女の熱が染み入るように伝わってきて、優しく涙を押し出していく。
「小町」
「なに」
僕は、小町の背中に回していた腕を解く。すると同じように僕の背中に回されていた彼女の腕も離れていく。
「信じてくれてありがとう」
小町はなにも言わず、しばらく黙ったままこちらを見つめていた。まるで僕という存在の奥深くに潜む言葉の残響を探し当てようとしているかのような、真剣で探求的な目つきだった。
「ねえ、なにか勇気づけるようなことを言って」
「勇気づけるようなこと?」
突然のことに、僕は鸚鵡返しをしてしまう。
「なんでも構わないわ」
まいったな、と思いながら、どうにか相応しい言葉を探し、彼女の希望に応える。
「これからも、小町は小町らしく生きていけばいい」
僕がそう言うと、小町は、静謐な獰猛さを秘めたアシンメトリーな笑みを浮かべた。
「捻りもなければ面白みの欠片もない科白ね。伊勢君らしさもここに極まれり、って感じだわ」
ずいぶん辛らつな言葉を並べたてられているというのに、そうやって活き活きと笑う彼女のことを、僕は心から愛おしく思う。
「でも、本当にそう思っているんだ」
「知ってるわ」
――だから嬉しいのよ。
小町は、噛み締めるようにそう言った。
「ねえ、気づいてる? どんなに凡庸なことを口にしても、そこに説得力を感じさせるのが伊勢君の美徳の一つなのよ?」
「そうかな。自分ではよくわからないよ」
「まったく称賛しがいのない反応ね」
と、今度は少し不機嫌そうに唇を尖らせてみせる。我慢できずに、その僅かに上向いた唇にキスをした。唇を離して、今にも溢れ出てきそうな思いを抑え込みながら、彼女にこう告げた。
「訂正する。恋人に褒めてもらえて、とても嬉しいよ」
こんなときに形式的な言葉しか返せない自分を、情けなく思う。けれど、照れることなくこうして断言できるようになっただけ、僕も少しは成長したのかもしれない。
「本当にそう思ってる?」
と小町は義務を果たすように訝しんでみせる。
「本当に思ってる」
僕は確信をもって頷いた。そして、そこから続く言葉を口にするかほんの一瞬だけ逡巡し、けっきょくストレートにぶつけることにした。
「どんなに仰々しいことを口にしても、そこに説得力を感じさせるのが、小町の一番の美徳だから」
まるで虚を衝かれたかのように、小町は僅かに開いた唇を閉じることも忘れて僕を見つめる。やがてその口許は、緩やかな弧を愛おしく描いていった。
それから僕たちは、遊歩道を引き返し、途中から往路にはなかった地下道を通って再び地上に出た。すると、ほどなくして在来線の駅が見えてくる。なんのことはない、アメリアは、最寄の駅から歩いて十分とかからない距離にあるのだ。笑ってしまうほど非効率的な回り道をしていた僕たちは、ホームに入ってすぐに到着した各駅停車の電車に乗り、互いの肩に寄りかかるようにして座りながら帰路に着いた。
「伊勢君」
電車を降りて、小町の家まで手を繋いで歩いている途中、それまでずっと黙っていた彼女が口を開く。
「うん?」
「好きよ」
それは思いの告白というより、まるで神に誓うかのような厳かさだった。
「誰かを好きになるということは、なにもかもをさらけ出して自分を委ねられることだと思っていたわ。けれど、実際は逆だった。最初に誕生日のことを話そうとしたとき、包み隠さずに告げることで伊勢君に失望されるかもしれないと考えたら、とても不安になったのよ」
失望。その荒涼とした大地を思わせる殺伐とした言葉を、彼女はずっと体の内に抱えていたのだろう。
「失望されたり、嫌われたくないって思うのは、ごく自然な感情だと思う」
「含蓄のある言葉ね」
「一般論だよ」
隣で、夜の闇に紛れて小町が笑う気配がした。そして、つながった手に力が入り、僕の指の付け根に優しく爪が立てられた。
駅から遠ざかるにつれて通りを歩く人の姿も少なくなっていき、ある地点から僕たちは歩道を独占するような形で歩いていた。今日は祝日で、時刻もまだ八時を回った頃だというのに、通行人は皆無だった。
海辺にいたときとは違う、暖かく湿った、季節の深まりを感じさせる風が吹く。空を見上げると、大きな暈を纏った月が、叢雲の端を淡く柔らかい紫色に染め上げている。すべての音は実体を滲ませたまま、微細な埃のように僕たちの周りを漂っている。ここは本当に、僕たちが歩いてきた道なのだろうか、とそんなことを考える。まるで暗く静かな海を回游しているような、不思議な気分だった。
やがて、赤信号に僕たちの足が止まる。運送会社のトラックが走り過ぎて、排気ガスの現実的な臭いを残していく。それっきり車は一台たりとも通らない。信号が、街灯が、月が、瞬き一つせずに僕たちをそれぞれの立場から見守っている気がした。そんな風に、束の間の祝福のようなものを感じとれたことを、僕は嬉しく思う。
「伊勢君」
信号が黄色から赤に変わるその瞬間、ささやかな調和に優しく終止符を打つように、小町は僕の名前を呼んだ。僕は返事をする代わりに、彼女の方に顔を向けた。
「いつか、母に会いに行くわ。会って、私の思いを直接伝えてみせる」
僕はなにも言わずに頷いた。
「でも、それはとても勇気がいることなのよ」
信号が音もなく青に変わり、僕たちはゆっくりと歩きだす。
やがて、小町がそっと息を吸う。静かな夜の空気を優しく震わせるその微かな音が、僕には確かに聞こえた。
「もう少しの間だけ、伊勢君に甘えていいかしら」
最後まで残っていた小さな空白に、そっとピースを添えるように。心のどこかで望んでいた言葉が、しめやかに囁かれる。
「僕でよかったら」
親愛なる恋人からの素っ気ない、けれどひたむきな願いに応えるために、僕は誠意をこめてそう言った。
小町の指に、再び力が入る。今度は、爪が立てられることもなかった。
アパートまでたどり着くと、僕たちはどちらからともなく手を離した。長時間の歩行で疲れ切っているはずなのに、僕も小町もしばらく黙ったままその場から動けずにいた。
「気をつけてね」
と小町が口を開く。今日という日の幕引きが、避けがたく迫っていた。けれど、せめて最後に伝えたい言葉があった。僕は、「小町」と名前を呼ぶ。
それは、愚かで未熟な僕が抱いていた、幼い夢の残滓。やがて去りゆこうとしている五月一日を飾るための、捻りもなければ面白みの欠片もない、けれど心からの言葉。
「ハッピーバースデー」
また、容赦のない言葉が飛んでくるのかもしれない。僕はそう覚悟した。けれど、小町は無言のままだった。言葉の代わりに、街灯の光に浮かび上がる白い顔が、ゆっくりと喜びの色に染まっていく。
初めて目にする、長く閉ざされていた蕾が綻ぶ待望の瞬間にも似たその笑い方は、十八歳になった彼女を象徴するような、果てのない美しさを僕に投げかけてきた。
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