Happy Birthday⑧
「母は、私の憧れだったわ。美しく、華やかで、行動力があって、いつも自信に溢れているような、そんな人。今の私があるのは、間違いなく母のおかげよ。……前にもこんなこと、伊勢君と折原君には話したかしら」
僕は頷いた。
「そのときにも言ったかもしれないけど、あの人は華やかで、行動的で、自信家で、だけど同時に、恐ろしいほど個人主義で、利己主義でもあったのよ。本当に、どうして父と結婚したのか、父はどうしてあの人と結婚できたのか、娘の私ですら理解できないわ。……これも、前に話したかしら」
僕は再び頷いた。
「そんな母でもね、私のことはとても気にかけてくれていたの。それは多分、娘である私が自分に似ていたからなのよ。あの人が誇る自らの美しさを遺伝的に、実質的に受け継いでいる私のことを、きっと昔の自分に重ねていたのだと思う。だから唯一、私にだけは関心を示していたの。今でこそこうして、自分が十五年間を過ごした家庭を、少しは客観的に見つめ直すことができているけれど、渦中にいる間は、そんな母の異常性に気づけなかったのよ。私はただ、母が好きだった。たとえあの人が親としての資質に欠けていたとしても、私に注いでくれた愛情は、本物だから」
――本物だと、思いたいから。
掬い上げた水が指の隙間から零れ落ちるのを防げないように、小町のその呟きもまた、止めようもなく口からまろび出てしまったのだろう。あくまでも凛とした涼しげな表情を崩すことなく正面を見据える彼女は、その横顔にかつてないほどの悲哀を纏わせているように見えた。
「伊勢君と恋人同士になるまで、私が心を許していたのは、きっと母だけだったのだと思う。父に対しては、家族の一員という認識はあっても、そこに信頼関係や絆を築くことが、最後までうまくできなかったわ。それは多分、私が母の価値観や人生観を学びとってしまったからなのだと思うの。だからこそ、両親の離婚が決まったとき、私は父ではなく母を選んで一緒に家を出たのよ」
二人で暮らすことを望んで。
しかし、小町のその願いは叶わなかった。母親は娘を残して、今も世界中を飛び回っている。
けれど、思い返してみれば、昨夜にせよ、去年の夏にヨーロッパから帰ってきたときにせよ、小町の口から、母親を恨んだり、拒絶するような言葉が放たれたことは一度としてなかった。それがどういうことを意味していたのか、こうして彼女に面と向かって打ち明けられてようやく、僕は気づかされた形になる。
「小さいときから、よく綺麗な子だと褒めそやされてきたわ。知っている人も知らない人も、みんな私の容姿を認めてくれた。けれどね、通り一遍の褒め言葉ではなく、綺麗であることを私の有する明確な個性……価値だと教えてくれたのは、間違いなく母なの。母は幼い私に、アイデンティティとしての美しさを強く植えつけたのよ。だから、私は誰より美しくあろうと、心を砕いてきた。美しい肌、美しい髪、美しい姿勢、美しい立ち居振る舞い、美しい字。そして、そんな美しい自分に見合った教養と感性。周りの子が友達を作ったりして、外の世界と向き合っている間、私はそうやって、ずっと自分ばかりを愛して生きてきたわ」
いつの間にか小町は、その双眸に冷ややかで泰然とした意志を纏わせながら話していた。しかしその瞳の奥には、どうしても拭いきれない心細さが薄らと漂っているような気がした。
僕は、とうとう小町の右手をとってしまう。それは、僕に自身のことを告白しようとしている小町を勇気づけるためではない。そうすることでこびりついた不安を振り払おうとしているのは、むしろ僕の方だった。
繋がれた手を眺める小町の顔に、笑みが浮かんだ。それは、これまでに見せたことのないような、僕を包み込むような笑い方だった。懸命に自分のことを伝えようと試みながら、その上でこんな風に笑える小町が、僕の目には眩しく、そしてもどかしく映る。
「そうやって自分を愛して、自分を高めながら生きていく上で、一番大切なことはなんだと思う?」
僕の目を覗きこみながら、不意に小町がそう訊ねた。
「見当もつかないよ」
「自分がしていることを、間違っていると思わないことよ。誰になんと言われようと、自分の正しさを信じ抜くこと」
「でも、それはとても難しいことのような気がする」
「そうね。決して簡単なことではないわ。特にほら、私の場合はこんな性格だから、誰かと衝突することも少なくなかった。そんなときに、私を罵ろうと、言い負かそうと、みんな揃いも揃って同じようなことを口にしたわ」
「同じようなって?」
「どんなに見た目を取り繕っても、お前は内面が汚れている、というようなことよ。他にも色々、散々なことを言われてきた気がするけれど、どんな言葉も私を決定的に傷つけることはなかったわ」
そんなことを、小町は平然とした口調で言い放った。これまでに彼女の口から語られてきた多くの言葉がそうであったように、強がりや言い訳がましさなんかとは無縁な、スマートなまでの客観性を帯びて、その真意が僕に伝わってくる。
けれど、もしかしたら……と僕は思う。
もしかしたら、小町が折に触れて自画自賛の言葉を口にするのは、自分に言い聞かせるためだったのかもしれない。言い聞かせる、という表現が卑屈すぎるのなら、愛する自分自身を信じ抜くための――自己を補強するための個人的儀礼、とでも言うべきだろうか。とにかく、そこには自己暗示という確固たる目的があった。僕のその考えは、あえて小町に真相を確認しようとする必要もないと思えるほど、瞬く間に定着し、真実味を帯びていった。それが主観的で一方的な解釈でしかないと断ずることが、僕にはどうしてもできなかった。
「小町は、本当に強いんだね」
と僕は言った。なにかを口にせずにはいられなかったのだ。
「それも、やっぱり母のおかげかしら。伊勢君、独我論って知ってる?」
「知らない」
僕は首を振った。
「簡単に言えば、この世に存在しているのは自分の精神だけ、という考え方ね。もともとは哲学における認識論の一つなんだけど、とにかくこの独我論を、母は私がまだ幼い頃から言い聞かせて、そこから実際的な考え方にアレンジした人生観として定着させたのよ。幼い私からすれば、おまじないをかけてもらったようなものね」
この世に存在しているのは、自分の精神だけ。そこから敷衍するようにして生まれたおまじないがどのようなものなのかを、小町はあえてつまびらかにはしなかった。けれど、文脈からその内容を推し量ることは十分に可能だった。
おまじないとはつまり、悪意や敵意に対する耐性を指すのだろう。それは、周囲の声や評判をものともしない小町の強さとして、今も連綿と受け継がれている。
けれど、その強さを得る過程で、失われたものも多くあったに違いない。他者から向けられる関心の中から、悪意や敵意だけを的確に選り分けて排除するだなんて、そんな都合のいいおまじないが存在するはずがないのだ。
だから、小町はきっと、自分に向けられた悪意だけじゃなくて、善意や好意のようなものも、まとめてシャットアウトしてきたのだと思う。それもおそらくは、彼女の意志とは無関係のところで。
「ねえ伊勢君、母も私も、普通じゃないのよ。どこかおかしいのよ。でも、それってどうしようもないことなの。アイデアや努力で修正できるような問題じゃないの。言っておくけれど、私は母に育てられたことを、母について家を出たことを、これっぽっちも後悔なんてしていないわ。あの人に育てられた結果、価値観や人間性が歪んでしまおうが、あの人についていった結果、置いていかれて独りになろうが、そんなのは本当に、ただの結果でしかないのよ。私は今も、煌びやかで自信に溢れている母が好きで、誇りに思っているの。そして、そんな母に育てられた私自身のことも愛しているし、誇りに思っているわ。それはたしかなことで、覆りようのない事実なのよ。でも、私は変わらなければいけないわ」
最後まで僕から目をそらすことなく、小町はそう言い切った。
「それはつまり、訣別を受け入れるということ?」
そう訊ねると、小町は神妙に頷いてみせる。
「私が母のことをどう思ってきたのか、どう思っているのか、伊勢君に包み隠さず打ち明けたわ。だから、その思いを預かっていてほしいの。私があの人と向かい合えるように。私自身が、一歩前に進めるように」
――伊勢君には、その証人になってほしい。
春の夜の風も、永遠を数える波の音も寄せつけないほどに澄んだ瞳で、小町はそう言った。
きっと、今この瞬間を以って、彼女の目的は果たされたのだろう。語るべきを余すところなく語り、打ち明けるべきを余すところなく打ち明けた。
誕生日プレゼントとして僕を望み、何度となく繰り返してきた日々をなぞるようなデートを経て、長い長い歩みの末に、小町はようやく僕に委ねることができた。
母親譲りの思想に護られるようにして、ずっと孤高を貫いてきた小町。けれど今、彼女は思想の檻を打ち破って、僕に心から信頼を寄せている。心から思いを寄せている。
そんな事実が、僕の感情をスパークさせた。
「伊勢君」
「うん?」
「痛いわ」
自分でも気がつかないうちに、僕は小町を強く抱きしめていた。
「ごめん」
そう謝りはしたものの、小町を抱く腕の力を緩めることができなかった。
「伊勢君」
「うん?」
「泣かないで」
「泣いてない」
嘘だった。小町を抱きしめながら、僕は泣いていた。
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