Happy Birthday⑦
五月一日。土曜日。
ゴールデンウィークが本格的に始動するその日、風が温かく吹き、空は素晴らしく晴れ渡っていた。小町の家を出た僕たちは、手をつないで駅前まで歩いた。男女を問わず、すれ違う多くの人たちが、小町に視線を送っていた。
目も眩むような白いワンピースを着て、同じように白色をしたレザーの小ぶりなショルダーバッグを肩掛けした小町は、凛とした表情の中に密かな誇らしさを滲ませていて、いつになく満たされているように思えた。幸せであることを静かに噛みしめながら前を向いて歩く彼女は、本当に美しかった。
僕たちはまず駅前のショッピングビルで服を見た。それから、これまでに訪れたことのない喫茶店に入り、少し遅めの昼食としてピザトーストを頼んだ。それを頼むと決めたのは小町だった。僕たちは揃って、朝に引き続き昼にもトーストを食べることになったわけだけれど、そのことに関して一切の異論はなかった。
それから僕たちは映画を見た。小町が観たいと話していたその邦画は、正直なところ、僕にとっては特に見所のない退屈な作品で、物語的な起伏も紆余曲折もなく淡々と進み、そしてごく平和的にハッピーエンドを迎えた。僕がそう感想を述べると、小町は「それは伊勢君が登場人物の心情の機微を察知しかねているから淡白に映ったのよ」とばっさり切り捨て、それから「私は気に入ったから、来週にでもまた一人で観に来るかもしれないわ」と満足げな表情を浮かべていた。忘れかけていたけれど、僕たちの映画に対する価値観には、なかなか相容れないものがあるのだ。
映画館を後にする頃には、気温もピークを過ぎ、少しずつ日が傾き始めていた。どちらからともなく、再び手をつないで歩き始める。
在来線の線路に沿うようにして伸びる歩道を南に進む。風が時折吹いて、小町の長い黒髪を揺らし、白いワンピースを膨らませる。すると彼女は空いた方の手で然るべき箇所を優しく抑える。僕は折に触れて、乱れた前髪を直す。そして、繋いだ手が少し汗ばんできたら、指を組み替えた。
誕生日に僕が欲しい、と宣言した小町から、今日のデートがどのようなコンセプトであるのか、詳細は明らかにされていない。これまでに何度となく重ねてきた日常をなぞるようなデートを経て、僕は今、行き先も、目的も知らされていないまま、彼女に付き添って黙々と足を進めている。僕は、すべてを小町に委ねていた。
やがて歩道は下り坂になり、高架化した線路を潜って西へと進路を変えた。いくつかの角を曲がると、僕たちの進行方向に、南北に伸びる高速道路が見えてくる。ちょうど西日は沈みゆこうとしていて、最後の役目とばかりに世界を燃えるような蜜柑色に染め上げていた。信号待ちで足を止めたとき、僕は何の気なしに隣を見遣った。瞼のふちまで余すところなく夕日を浴びている小町は息を呑むほど綺麗で、そのまま透き通って消えてしまいそうなほど儚く映った。僕の視線に気づいて、結んでいた唇を綻ばせると、彼女は背伸びをして、僕にキスをした。それから僕たちは青信号を渡り、また時間をかけて歩調と歩幅を揃えていった。
僕は、向かっている方角から、このあてのない歩行の終着点を少しだけ意識し始める。もしも僕の予想が正しければ、そこに二人で向かうのは初めてということになる。
高速道路の立派な橋脚を横目に長い横断歩道を渡り終えた頃、太陽はもうほとんど沈んでしまっていた。僕たちの特別な日常を締めくくる散歩も、もうすぐ終わろうとしているのだと思った。僕はクレリックシャツを脱ぎ、小町に着せてやった。彼女も変に遠慮することなく、僕のシャツに袖を通した。
やがて僕たちは、海に行き当たった。そこはいわゆるベイエリアで、砂浜ではなくコンクリートで整備された遊歩道が広がっている。
夜の匂いのする冷たい風が吹きつける中、僕たちは海沿いの遊歩道を北に進んだ。街灯や施設の明かりのせいで、空はスモッグがかかったかのように薄く霞んでいる。隣に広がる海はすべてを呑みこむような漆黒に染まっていて、かすかに見てとれる波の揺れは、太陽が昇っているときよりもどこか機械的に映る。
歩いていると、何組かのカップルとすれ違った。彼らはきっと、映画鑑賞や買い物を終えて、これから南側の広場へと向かうのだろう。そこは夜景が綺麗に見えるスポットで、暗くなるとカップルがこぞって集まるのだと、いつだったか折原が話していた気がする。
遊歩道を進むと、アメリアの建物が見えてきた。小町が頑なに来ることを避け続けていた、この辺りで最も大規模な商業施設。そこを横目に、僕たちは歩き続ける。
アメリア、展望タワー、そしてナイトクルーズの船を送り出した乗り場を通り過ぎ、黙々と足を止めることなく進めていき、やがて遊歩道の終点に行きあたった。
足を止めた小町は、繋がれていた手を解いて遊歩道と海を隔てる柵に手を置いた。どうやら、僕達にとっても、ここがゴールのようだった。僕は、すぐ傍にベンチが設置されていることに気づくと、ほとんど無意識のうちにそこへ腰かけてしまう。そうすると、どっと疲れが押し寄せてきた。それも当然といえば当然だろう。腕時計が示す時間から逆算すると、僕たちは、少なく見積もっても三時間ほど歩きどおしだったのだ。
小町は、僕に背を向けて海を眺めていた。夜に混じった長い髪が風にはためき、僕が着せたシャツの裾から覗くワンピースがたなびいている。その後ろ姿を眺めていると、なぜだろう、今の彼女には近づくことはできないと思った。長時間の歩行で火照っていた身体も少しずつ冷え込んでいき、実のところ寒さすら感じていたけれど、僕には待つことしかできなかった。
「伊勢君」
そろそろくしゃみの一つも出そうだという頃、小町が僕の名前を呼んだ。しかし、その視線は正面の海を見据えたままだった。僕は迷った末に、ベンチから立ち上がって小町の隣に立った。そして、彼女に倣うようにして冷たい柵に身体を預けた。
「こんなところまで付き合わせて、ごめんなさい」
目の前には黒い海が広がり、数百メートルほど先には工場のような大きな建物がある。その建物には明かりがついていない。まるで夜の闇の中に、四角い箱が横たわっているようだった。目の前に広がっている、そんなお世辞にもロマンチックとは言えない光景から、小町は視線を外さなかった。
「気にしなくていいよ。今日に限って言えば、僕の自由は小町のものなんだから」
冗談めかしてそう言ってみても、彼女が笑う気配はなかった。
「こういう手順を踏まないことには、私の中で話をする覚悟が定まらなかったのよ」
あくまでも淡々とした、僕にとっても馴染み深い平坦な小町の喋り方。けれど今、その声は、風が吹くと途端に震えてしまいそうな弱々しさを滲ませていた。
「話って?」
それは疑問というより、多くの思いを抱えている小町が少しでも楽に話を進められるようにと、僕が用意したきっかけのようなものだった。
「母のこと」
もしかしたら僕は、心のどこかで覚悟を決めていたのかもしれない。小町が口にしたその言葉を、心を鎮めたまま受け止めることができた。
僕の左腕に、小町が弱々しく触れる。けれどそれは一瞬のことで、その手はすぐに離れてしまう。
それからまた小町は黙りこんだ。ちょうど同じくらいのタイミングで、海からの風も止んだ。僕はそのことに、少しだけ救われた気持ちになる。
「あそこに見える建物」
やがて小町が、右手の人差し指を伸ばした。柵を越えて、海の上に晒されるような形となった彼女の右手をたどって、僕は前方にそびえる大きな建物に目をやった。
「あれは、倉庫よ。母が、仕事で使っていた倉庫。母の会社が海外から買い付けてきた商品を保管していたのが、あそこに見える倉庫の中の一区画なのよ」
僕の言葉を待たず、小町は抑揚の欠けた平坦な口調で話し続ける。
「納品のチェックなんかであの倉庫に用事があったとき、私も学校が終わってからよくここに来たわ。ベンチに座りながら、あの倉庫にはなにが入っているんだろうとか、母はどんな話をしているんだろうとか、そんなことを考えていたの。そうすることに飽きたら、アメリアでショッピングをしながら、母を待っていたわ。仕事が終わったら、一緒にご飯を食べて、それから母の運転する車で家に帰るのよ」
そこまで口にして、小町は背後を振り返る。僕も遅れて後ろを向くと、遠くの方にアメリアが見えた。倉庫とは対照的にライトアップされているその建物を無言のまましばらく見つめてから、彼女は再びゆっくりと身体を戻して、前のめりに寄り掛かるような姿勢になる。
「ここに来ることをずっと避けていたのは、お母さんとの思い出があるから?」
僕はそう訊ねた。
「ええ。けれど、いつまでも目を背けているわけにはいかないのよ」
それは、自らに言い聞かせるような切実な響きだった。
どこか遠くの方で、クラクションが鳴る。その希釈された響きを聞き届けたとき、小町はゆっくりと口を開いた。
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