Happy Birthday⑥

 窓の外が白み始めていて、朝が近いことを知る。僕は瞼を強く閉じ、そして再び開いた。ぼやけて見えていた天井が少しだけはっきりと映るけれど、それは決して見慣れた光景ではなかった。

 ここは、小町の家の寝室だった。普段、彼女が一人きりで眠っている寝室。そんな場所で、僕は目を覚ました。

 ふと、シーツの擦れる音がする。隣で小町が寝返りを打ったのだ。彼女は肩まで布団を被ったまま静かに眠っていて、仰向けの状態で一桁台の角度だけ僕のほうへと顔を向けていた。

 僅かに乱れた長い髪の毛の間からは彼女の寝顔が覗き、豊かな睫毛がこちらに向かって愛おしく伸びている。少しだけ開いた口許からは、穏やかで規則的な呼吸が繰り返されていた。

 日の上り方からして、おそらく五時前といったところだろう。僕は息を吸い込んで意識的に欠伸を喉から押し出す。もう少しだけ、小町の隣で一緒に眠っていたかった。

 次に目が覚めたときには、開け放たれた窓から差し込む朝日によって寝室は克明に照らし出されていた。日は高く、普段の起床時間がとっくに過ぎてしまっていることを悟る。

 隣は、すでにもぬけの殻となっている。ベッドの下には、僕の着ていた服が綺麗に畳まれて置かれていた。それはもちろん、僕がそうしたわけではない。

 ベッドから抜け出そうとする体勢のまま、海底に沈んだ岩のように整然と佇んでいる衣類をしばらく眺めていた。そして、言葉ではうまく言い表すことのできない感慨をひとしきり噛み締めてから、なんとなくむず痒い気持ちで、それを広げて着込んでいった。

 リビングに出ると、ソファに小町が座っていた。

「おはよう」

 読んでいた文庫本から目を上げて、小町はクールにそう言った。僕は何度か瞬きをしてから、「おはよう」と返した。十八歳になった小町は、まるで古い映画の中から抜け出してきたかのような純白のワンピースを着ていて、ソファの黒い革張りとのコントラストが眩しかった。

「洗面所を借りてもいいかな」

 僕は俯きがちにそう呟いた。面と向かって顔を合わせるのが、今はたまらなく気恥ずかしい。

「どうぞ」

 と言って、小町は再び文庫本に目を落とした。僕は後頭部にできたふわふわとした寝癖をさすりながら、リビングを後にする。

 洗面所は綺麗に整頓されていた。洗面台は、まだ封が切られていない紺色の歯ブラシが置いてある他には水滴一つ飛んでいなかった。僕は、自分のバッグの中に入っている、コンビニで買った旅行用の歯磨きセットのことを思った。そして、すぐにそれを打ち消して、歯ブラシのパッケージを開けた。

 できる範囲で身だしなみを整えてから、僕は再びリビングに戻って、相変わらず文庫本を読んでいる小町の隣に座った。彼女の着ているワンピースの裾からは、つるりとした白い膝が覗いている。

「なんだか不穏な視線を感じるわね」

 その平坦な声にどきりとして顔を上げると、小町が横目でこちらを伺っていた。

「ごめん」

「別に謝る必要はないと思うけれど」

 僕は顔が熱くなる。

「ねえ、そんなことより、これがなんなのか気になるわ」

 文庫本をテーブルに置いた小町が、自分の足元を指差した。そこには、僕が持ってきた紙袋が置いてあった。本来であれば、誕生日を迎えてすぐに手渡すはずだった、僕の幼い夢の象徴。

「ごめん。渡すのをすっかり忘れてたよ」

「もしかして、それは私へのプレゼントなのかしら」

「うん」

「早く中が見たいわ」

「開けていてもよかったのに」

 と言うと、小町は呆れたようなため息をついてみせた。気遣う必要なんてないということを伝えたかったわけだけれど、どうやら僕は的外れなことを口にしてしまったらしい。僕はラッピングされたそれを紙袋から取り出して、恭しく差し出した。

「小町のために、心から選んだよ」

 それが、散文的な僕にとって精一杯気取った科白だった。

「ありがとう」

 微かに表情を蕩けさせながら、小町は受け取った箱を愛おしそうに撫でた。そして、包装紙を破らないよう、丁寧に開けていった。

「サイフォンね」

「うん」

「伊勢君らしいチョイスだわ」

「趣味を押しつけている気がしないでもないけど」

「そんなことない。嬉しい」

「よかった」

 -「ねえ、淹れ方を教えてくれない?」

「今から?」

「ええ。昨日は伊勢君の希望に応えられなかったもの」

 昨日。コーヒーを淹れると言って台所に向かおうとした小町を呼び止めたことを思い出すのに、少し時間がかかってしまった。

 現実感の乏しさ。僕は、今日という日が昨日と地続きであることを、なんだかうまく飲みこめなかった。まるで、僕にとっての世界が一夜にして生まれ変わったような感覚だった。だから、眠りにつく前のことが――小町と交わした言葉や、多くのやりとりすらも――靄に包まれたかのように鮮明さを欠いているのかもしれない。僕の記憶に辛うじて留まっているのは、感覚的で抽象的なものばかりだった。そしてそれは、僕自身の裁量で取り出したり確かめたりできるような代物ではなかった。

 決して広くはないキッチンで僕たちは肩を並べて、サイフォンについていた新しい濾過布の糊を落とすところから始めた。本来であればただ煩わしいだけのそんな作業も、隣に小町がいることでやりがいを感じた。

 糊が完全に落ち切るのを待っている間、僕たちは何度かのキスをした。唇を離すと、茶色い瞳がこちらを見上げていた。彼女の魅力を象徴する目元。今日という日が特別であることを証明するように、そこを彩るメイクは普段にも増して緻密に施されている。まぶたの上や目尻で輝く、あまりにも細やかで鮮やかな粒子は、この世でただ一人、僕だけが観測することを許された小さな銀河系のようだった。

「トーストでも食べる?」

 コーヒーが沸騰するのを待っている間に、小町がそう訊いてきた。

「うん」

 頷いて初めて、空腹を意識する。昨日の夜にミートローフを食べたのが、とても遠い過去に思えてきた。

「小町はなにか食べたの?」

「私もトーストを食べたわ」

 いつの間に、と思ったけれど、きっと僕がベッドに寝穢く沈んでいる間に小町は整容や朝食を済ませたのだろう。

 待ってて、と言うと、小町はエプロンを羽織ることなく手を洗い、シンクの下にかけられたタオルで拭ってから、薄緑色のトースターに食パンを二枚投入した。僕はダイニングテーブルに座りながら、トースターがジリジリとパンを焼く音を聴いていた。それは、記憶と心に留めておきたいと思えるような、幸せな朝の音だった。

 トーストを持って来た小町は、ダイニングテーブルの向かいに座りながらこちらを見つめた。自分はコーヒーを口にしながら、食事を進める僕を観察するように。

「パンの焼き加減はどう?」

「ちょうどいい」

「そう」

「うん」

 サクサク、と僕が食パンを咀嚼する様子を小町はじっと見ている。

「伊勢君、口元にマーマレードジャムがついているわ」

「ん」

「伊勢君」

 僕が口を拭うと、小町はもう一度僕の名前を呼んだ。

「うん?」

「今日は一日、伊勢君の時間を私にくれないかしら」

「それは誕生日プレゼントとして?」

 僕の言葉に、小町は数秒ほど考え込む様子を見せた。そして、ふわりとした微笑を浮かべる。

「ええ。二つ目の誕生日プレゼントとして、伊勢君が欲しいわ」

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