Happy Birthday⑤

 嗚咽も、しゃくり上げることも、身体を震わせることも、声を上げることもしない。けれど小町は、僕の腕の中でたしかに感情を解き放していた。僕は、ようやく彼女の望む存在になれた。そのことが、心から誇らしい。

 それがふさわしい考えではないのはわかっている。けれど、こうして小町を抱きしめている時間がいつまでも続いてほしいと思った。

 どれくらいそうしていただろう。時間の感覚が曖昧になり始めたころ、小町はようやく僕のシャツから顔を上げた。拭われることなく両眼から伝った涙の跡が、白く照り返っている。

「もう、大丈夫なの?」

「ええ」

 見つめ合う。濡れた瞳。睫毛の上で光る涙。僕は親指を優しく這わせて、右の頬に何本か張り付いている髪の毛を取り除いた。小町はくすぐったそうに目を閉じた。その拍子に、睫毛の上に佇んでいた雫が零れ、白い肌を滑り落ちていった。

「僕は、役目を果たせたかな?」

「気の利いた言葉があれば、もっと良かったかしら」

 迷いも遠慮もない研ぎ澄まされた言葉が、僕の心へと響く。そこにいるのは、間違いなくいつもの小町だった。

「詩的な言い回しや修飾が苦手なことは知ってるよね」

 僕がそう反論すると、小町は「知ってるわ」と笑った。

「ねえ伊勢君、散文的で凡庸な感性のあなたがとても好きよ。だけど、まだ足りないの。残念ながら、私はしくしくと泣いて、それだけでなにもかもを忘れられるような物わかりのいい人間じゃないから」

 彼女は、他の誰でもない彼女自身のために、唇を尖らせ、心からの言葉を口にする。それは僕の中の固い部分を解きほぐし、刺激し、温かくする唯一無二の響きだった。

「僕はなにをすればいいんだろう」

 僕がこの場所に存在する意義。それは、どうしようもなく彼女によって規定されてしまう。秘めていた望みも、言えずにいた言葉も、ささやかな夢も、すべて手放して、目の前の恋人に尽くそうと、素直な気持ちでそう思うことができた。

「私を愛して」

 ――私を愛すること以外、なにも考えないで。

 それは、これまで耳にしてきた中で最も力強く、そして最も深く僕の心を震わせる言葉だった。

 キスをする。

 去年に僕の部屋で初めて交わして以来、これまでに数えきれないくらい繰り返してきたというのに、今こうして小町と唇を触れ合わせることで、僕はかつてないほどの思いの高まりを感じていた。

 唇を離さないまま、小町が強く抱きしめてきた。僕の中で高まっていた思いが、音もなく溢れだす。

 恐る恐る舌を動かして、小町の唇に触れる。吐息混じりの甲高い呻き声がかすかに聞こえて、腕の中で華奢な身体が僅かに強張るのがわかった。けれど、僕は止めなかった。止められなかった。

 やがて、小町が応えてくれた。薄く、柔らかく、少しだけざらついていて、信じられないほど熱を帯びた彼女の舌が、ゆっくりと僕を撫でていく。唾液が行き交う音が艶めかしく響き、陶酔という感覚を、僅かなコーヒーの匂いと共に僕の中に刻みつけていった。

 あたたかく清潔な沼に身体が沈んでいくように、僕はその場にくずおれそうになった。堪らなくなって、口を引き剥がす。彼女の頬は赤く染まり、瞳は水っぽく揺れていた。そして、今にも泣き出しそうな顔で笑っている。それは、熱い思いが溢れようとしているその直前の、胎動にも似たサインだった。

 リビングの照明が、小町の細い指により落とされる。窓から差し込む街灯の白い光に薄く滲む寝室を、僕たちはゆっくりと進んだ。

 手をつなぎながら、そっと、まるで雲に身体を預けるような気持ちでベッドに入りこむ。あの夏の夜、僕が懸命な思いで踏みとどまった一線を、今、あまりにあっけなく越えてしまう。けれど、この日を迎えるまでに、僕は僕なりに様々なことを考え、様々な思いに触れ、様々なシチュエーションを乗り越えてきた。そういった経験を時間という一言に集約できるとしたら、然るべき時の流れが、然るべきタイミングで、然るべきところに僕を運んでくれたということになるのかもしれない。

 僕たちが横たわると、マットレスのスプリングが鈍い音を立てる。この季節にしては少し厚手な掛布団の上で、僕たちは再び抱きしめ合った。

 ぎこちなく手を動かして、肩や背中に触れ、髪の毛に指を絡ませる。息を吸うと、小町の匂いに押しつぶされそうになる。まっとうな思考が少しずつ奪われて、原始的な衝動が身体中を支配していく感覚があった。そうやって僕の中でエゴとイドの配分が緩やかにスイッチしていく中で、どんどん呼吸が浅く、短く、熱っぽくなっていく。一方で小町もまた、やはりそれらの変化に見舞われているのだと、そう実感する。

 時折、思い出したかのようにキスをした。長く、深いキスを。唇を離すと、僕たちは再び身体を触れ合わせていく。そしてなにかの拍子にまたキスをする。長い時間をかけて、僕たちはお互いの身体の、およそ手が届く範囲のすべてを確かめ合った。それは、欲求や思いの表明と呼ぶにはあまりに稚拙なやりとりなのかもしれない。けれど、仕方のないことだった。この先へと進むにあたって、僕も小町も、適切な手順や要領というものを持ち併せていなかった。

 やがて僕たちの身体の中で、熱く高まり、混ざり合うものがあった。そして、むせ返りそうなほどに甘く滑稽な停滞の末に、僕たちはその先へと進んだ。

 僕たちの声が潤み、身体が潤み、互いの体温が掛け値なしのあたたかさで伝わったとき、僕は、残された思考の一片で、祈るような気持ちでこう思った。

 ――小町を求める気持ちが、せめて最後まで小町を思う気持ちに包括されていますように――と。

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