Happy Birthday④

 続く言葉があった。用意していたプレゼントがあった。思い描いていた夢があった。

 そんなものは、一片も残さず僕の前から消えてしまった。

「小町」

 僕はもう一度、名前を呼んだ。けれど、反応はなかった。僕も、彼女も、この部屋も、なにもかもが凍りついたように動きを止めていた。心臓の鼓動が聞こえないのが不自然なほどの静寂の中、小町の両目から流れ落ちる涙だけが時間の流れを証明していた。

「小町」

 何度呼びかけても反応はなかった。今の彼女は、心を閉ざしてしまっているのだと思った。心を閉ざして、まるで機械が必要に応じて排水するように、ただ涙を流している。僕はその様子を、ただ見守ることしかできなかった。

 どれだけの時間が経っただろう。やがて小町は立ち上がって、どこかに行こうとした。僕は迷うことなく、その離れゆこうとする手を掴んだ。

「離して」

 それは、普段の冷ややかな苛烈さをまったく感じさせない、痛々しいほどに力のない拒絶の言葉だった。

「離さない」

 僕もまた、唇が震えそうになりながらそう口にした。小町が、責めるような、懇願するような目で僕を見ていた。

「どうして?」

 痛切な問いかけが胸に突き刺さる。彼女は今、心の底から独りになりたがっていた。僕はそのことを、それこそ痛いくらいに理解できた。

 だからこそ、考えうる限りで最も残酷な言葉を、彼女にぶつけることができた。

「僕はまだ、なにも聞かされていない」

 わかっていた。僕がその言葉を口にすると、小町の中に僅かに残っている毅然とした部分が崩れ去ってしまうことが。僕はなにも言うべきではなかった。黙って小町を行かせてやるべきだった。

 けれど、僕はもう独りにはなりたくなかった。小町が抱えているなにかについて、これ以上あてのない思いを巡らせたくなかった。

 僕に手をとられたまま、しばらく動けずに固まっていた小町は、一つ息を吐くと観念したように再びソファに腰を下ろした。僕は掴んでいた手を離す。彼女の手が、あるべき場所に戻るように膝の上に置かれるのを見届けてから、その隣に座り直す。

「ごめんなさい」

 小町はそう呟いた。その謝罪の意味がわからずに困惑していると、小町は「ずっと、待っていたの」と続けた。

「待つって、なにを?」

 僕はそう問いかけた。

「母からの電話よ」

 母からの電話。

 小町の口から出たその言葉が、僕の頭の中で反響する。母親から電話がかかってくるということの意味。そして、小町がそれを待っていることの意味。

「母は、私の誕生日を覚えているわ。……親が子どもの誕生日を覚えているのは当然だって、伊勢君は思っているかもしれない。でも、違うのよ。母は、自分が興味を向ける対象以外のことは一顧だにしないような人なの。それが例え、家族に関することであってもね」

 僕が黙っていると、小町は意を決したように話を始めた。あの日――心に傷を負ってドイツから帰ってきたあの夏休みの日――以来、彼女の口から具体的に母親について語られるのは、これが初めてのことだった。

「家庭はあくまでも家庭として、顧みるまでもなく正常に存在していると、あの人は一片の疑いもなく信じているの。そうじゃないと、一つの会社を経営しながら自分自身もバイヤーとして外国から外国へ飛び回るような真似、できるはずがないのよ。それでも唯一、母は私の誕生日のときだけは必ず家に帰ってきてくれた。おめでとう、と言って私を抱きしめて、頬にキスをしてくれた。外国で買い付けた素敵なお菓子や雑貨をプレゼントしてくれた。だから私にとって誕生日は、一年で一番幸せな日だったのよ」

 そこまで話すと、小町は義務的な手つきでローテーブルのマグカップをとり、口をつけた。冷めたコーヒーの重く暗い味が、僕の口の中にまで伝わってくるような気がした。

「でも、十六歳の誕生日――父と母が離婚してから迎える初めての誕生日には、母はこのアパートに帰ってこなかったわ。その代わり、誕生日の前日に電話があった。それはとても短い電話だった。ハグやキスに代わるメッセージはなかった。そして誕生日の当日に、国際便でプレゼントが届いたわ。私が手にとったことのないような、高級ブランドのセットアップとバッグ。これまでとは比べ物にならないほどお金をかけていることは、すぐにわかった。去年の十七歳の誕生日も、だいたい同じような祝い方だった。祝いというより、それは報せのようなものだったわ」

 そして、十八歳の誕生日の前日。

 母親からの連絡は、なかった。

 小町が理由をつけては何度となく僕を残してリビングを離れたのは、もしかしたら携帯電話を確認していたからなのかもしれない。その姿を、僕に見られたくなかったのだ。

「きっと、去年の夏にあの人が私をポーランドに呼んだのは、母親として娘にするべきことが残っているのか、そのことを確認するためだったのよ。だから、ある程度の覚悟はしていたつもりだった。でも、もしかしたら、っていう期待があったのね、きっと。もしかしたら母は何事もなかったかのように電話をかけてくるのかもしれない。もしかしたら明日になると私の好みなんて一切無視した高くて仕立ての良い服やバッグなんかが送られてくるのかもしれない。もしかしたら……」

 その先を、小町はとうとう言葉にできなかった。そこに答えや救済を求めるようにマグカップの中を覗き込んだまま、一切の動きを止めてしまった。

「最初から、事情を話してくれればよかったのに」

 重くのしかかってくる沈黙に耐え切れず、僕はそう言った。けれどすぐに、口にしてしまったことを後悔した。

「できなかったのよ」

 小町は、悲痛な表情を浮かべてそう言った。

「私と母の問題に、これ以上あなたを巻き込みたくなかった。でも、今日の夜を独りで迎えることが怖かった。本当に、とても怖かったの。色々考えているうちに、なにが正しくてなにが間違っているのかが、私にはわからなくなってしまったのよ」

 そうか、と僕は思った。

 そもそもの最初から、解釈が決定的に違っていたんだな。

 なぜ、小町は誕生日の当日ではなくその前日に僕を呼んだのか。その理由が、ようやくわかった。

 小町は、ただただ僕を必要としていたのだろう。親子関係の終焉を決定づけるその瞬間を、一人で迎えたくなかったから。思い返せば、彼女は今日まで、「祝ってほしい」とは一言も口にしていなかった。

 そして僕は、彼女が『ごめんなさい』と口にした真意を理解する。

 初めて迎える、恋人の誕生日。そんなシチュエーションに、僕が一言では言い表せない期待を抱いていることを、小町は最初から見透かしていた。

 独りで理解して、独りで葛藤して、独りで決断して。そうした孤独な過程を経て僕と向き合ったとき、きっと小町はすでに心の平衡感覚を失ってしまっていたのだろう。

 そして今、哀しいほどの聡明さが、人知れず固めた覚悟が、僕に対する罪悪感となって彼女自身を苦しめている。

 その事実に気づいたとき、僕は小町の背中へ手を回していた。彼女を抱きしめるのは、これが初めてのことだった。

「ごめん」

「どうして、伊勢君が謝るのよ」

 か細い声で小町はそう言った。

「上手く、甘えさせてあげられなかった」

「……なによ、それ」

 小町の身体が、僕の腕の中で強張っていく。そして、自ら僕の胸元に顔を埋めてきた。シャツと肌着を通して、小町の温度と緩やかな呼吸が伝わってくる。

「小町は今、悲しいんだろう? だったら、それを溜めこまないでほしい」

「簡単に、言ってくれるわね」

 そうやって彼女が口を動かす度、胸元に感じる温もりは波打つ。やがて、鼻をすする小さな音が聞こえた。それは、暗闇の中で淡く明滅する蛍の光のようにか細く、あまりに弱々しい感情の発露だった。

 不意に、記憶の中で蘇るものがあった。ヨーロッパから帰ってきた小町が一人でいられないからと僕を呼んだ、あの夜のこと。

 ――これから小町と関わっていく中で、彼女の母親というのは避けて通れない存在なのかもしれない。

 海の向こうでの出来事を語った小町が眠ったのを見届けてから、僕はそんな予感をひそかに覚えていたのだ。

 呼吸の度、ほんの僅かに上下する小さく頼りない背中を抱きながら、僕は心の中で誓う。

 最後まで付き添おう、と。

 小町が母親への気持ちに折り合いをつけるそのときまで、僕は隣で見守ろう。必要とするのなら、手を貸そう。背中を差し出そう。誰一人として彼女の母親に代わることができないのと同じように、誰一人として僕に代わって彼女の支えとなることも、できないはずだから。

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