Happy Birthday③
「いらっしゃい」
インターホンのボタンを押すと、すぐに小町が出た。彼女は、まるでローブのような意匠のカシュクールワンピースを着ていた。
「その服、似合ってるよ」
「ありがとう。伊勢君もそのシャツ、よく似合っているわよ」
僕を招き入れるとき、小町の視線が僕の手にした紙袋に向けられた。けれどそれはほんの一瞬のことだった。
ダイニングテーブルの椅子に腰掛け、僕は小町が作った料理が運ばれてくるのを待った。音楽もなにもかかっていない部屋はとても静かだった。それは、心の内に抱える緊張を増幅させるような、そんな静寂だった。キッチンで小町が立てる音さえも、その静寂の中に含まれていた。
「お待たせ」
トレーを持った小町がダイニングテーブルの前にやってきて、赤い耐熱皿に入った二人分のミートローフとバゲットとコンソメスープ、そしてカトラリーを慣れた手つきで置いていった。ミートローフはチーズがかけられていて、付け合わせとして人参とブロッコリーと輪切りの玉ねぎが添えられていた。
「とてもおいしそうだね」
それは僕の心からの感想だった。小町はエプロンの紐を解きながら、なにも言わずにただ目を閉じて笑った。
僕の向かいの椅子に、小町が腰を下ろす。それから手を合わせて、「いただきます」と言った。そのクールな所作に見惚れそうになりながら、僕も彼女に倣って「いただきます」と言った。
ミートローフは香辛料が程よく効いていた。オーブンでよく焼かれた肉の中にはナッツやコーンなんかが入っていて、想像と違う食感が楽しめた。小町の手料理を食べるのはこれが初めてのことだけれど、一人暮らしをしているだけあって、どうやら料理の腕はたしかなようだった。「とてもおいしいよ」と僕が言うと、小町はささやかに頷いてみせた。
食事中、僕たちは会話を交わすこともなく、粛々と手を進めた。時折ナイフが耐熱皿に当たる音が大袈裟に響いた。けれど、居心地が悪いということはなかった。徐々に胃袋が満たされていくにしたがって不思議と緊張感も解けていき、この部屋を訪れてから僕は初めてリラックスすることができた。
「ごちそうさま」
コンソメスープの入ったカップをテーブルに置いて、僕は手を合わせた。ほどなく小町も手を合わせて「ごちそうさまでした」とクールに言った。そして「伊勢君はテレビでも観ていて」と言い残して小町はさっさと洗い物を始めてしまった。まったく僕のつけ入る隙のないスムーズな動きだった。
僕は仕方なくリビングに向かい、ソファに座った。そしてローテーブルの上に置いてあったリモコンを手にしてテレビをつけた。ちょうど音楽番組が始まったところだった。僕は今日が金曜日であることを唐突に思い出す。
聞いたことのないバンドが聴いたことのない曲を演奏しているのを眺めていると、洗い物を終えた小町が僕の隣に腰を下ろした。
僕は小町の手を取った。洗い物をしていたせいか、その手は冷たかった。優しく包み込むように掌を覆うと、小町も指に力を入れて僕の手を握り返してきた。
テレビの中で演奏が終わったタイミングで、僕はキスをする。少しだけ体をかがめて、彼女の前に回り込むようにして。唇を離すと、小町は目を閉じていた。僕は閉じられた瞼を、その上を密やかに彩るメイクを、じっと目に焼きつける。やがて瞼を開けた小町が、同じように僕の目を見つめる。先に目を逸らしたのは、僕の方だった。
「ねえ、小町」
「なに?」
「僕は、本当にここにいていいのかな」
小町の目が細まっていく。彼女の瞳から放たれている怜悧な光は細く鋭く絞られ、やがて僕を音もなく貫いていった。
「当たり前じゃない」
小町はそう言ってソファから立ち上がる。言葉には出さなかったものの、僕は動揺してしまっていた。無言のまま見上げる僕に、小町は柔らかい笑みを向けた。
「シャワーを浴びてくるわ」
彼女の履くスリッパがたてる乾いた足音が遠ざかり、やがて扉の開閉音と共に消えた。僕はソファに座ったまま、うなだれるようにして顔を伏せた。そして、くだらないことを口走ってしまった自分自身を呪った。苛立つことすらうまくできないほどに、今の僕は打ちのめされてしまっていた。それでもどうにか大きく一つ息を吐き、リモコンを手に取ってテレビを消した。液晶画面は歌番組の煌びやかなステージではなく、ぼんやりと輪郭を滲ませた僕の姿を映し出していた。それは単なる反射ではなく、こびり付いた積年の汚れのような醜さを放っていた。
黒いルームウェアに着替えた小町が戻ってきた。長い黒髪はもう乾かされている。彼女がシャワーを浴びて、ここに戻ってくるまでの時間。それは僕にとって、ひとかたまりの空白だった。
「ゴールデンウィークが明けたら、中間テストがあるわね」
白い文字盤の壁掛け時計が九時を示した頃、小町が唐突にそんなことを口にした。
「そうだね」
「伊勢君はきちんと勉強しているの?」
「してるよ」
「抜け目ないのね」
「勤勉と言ってくれないかな」
小町はなにも言わずに笑った。それが繕うための笑みなのか、それとも心からのものなのか、僕にはやはりうまく判別することができなかった。
それから、小町は僕に向けてさらにとりとめのないことを話し続けた。進路のこと、最近見た古い洋画のこと、それに出てきたフランスの俳優のこと、近所にできたパン屋のこと、新しく買った化粧水が肌に合わなかったこと――。彼女が一方的に話し、僕は相槌を打つだけだった。決して忙しい口調ではない。あくまでも穏やかで、整然とした語り口だった。にも関わらず、小町の中で渦巻いている焦燥の影が、言葉の端々にちらついている気がしてならなかった。
「伊勢君、コーヒー飲まない?」
そう小町が言ったのは、日付が変わる三十分前だった。小町がシャワーを浴びてから、二時間あまり僕は彼女の話を聞いていたのだ。
「飲みたい」
そう口にしてから、まさに彼女へのプレゼントがコーヒーを淹れるためのサイフォンだったことを思い出す。「お湯を沸かしてくるわ」と言ってソファから立ち上がろうとした小町を、「待って」と制してしまう。それはほとんど無意識のうちに出た声だった。このタイミングでサイフォンを渡すのも、やっぱりコーヒーはいらないと言うのも不自然な気がして、代わる言葉を考える。
「僕も一緒に淹れちゃ駄目かな」
それが咄嗟に口をついて出た言葉だった。けれど、もしかしたら僕にとってはなにより切実な本音だったのかもしれない。
これ以上ここで小町を待つことをしたくなかった。一人で過ごしていると、気づきたくないこと、認めたくないことに行き当たってしまうような気がしたからだ。
「共同作業で進めるようなことじゃないわ」
まったくその通りだった。ドリップコーヒーを淹れるなんて、二人もいればどちらかが手持ち無沙汰になるに決まっている。キッチンに向かう小町の背中を眺めながら、思わずため息をついてしまう。そして、なんだかうまくいかないな、とそんなことを考えてしまう。
気持ちを切り替えよう。僕はそう自分に言い聞かせる。
日付が変わったら、おめでとうと言ってすぐにこのサイフォンを渡そう。二杯目のコーヒーを淹れよう。あたたかく親密な空気を取り戻そう。そして、小町の十八歳の誕生日を思い出に残るものにしよう。僕と一緒に過ごせてよかったと、彼女がそう思えるように振る舞おう。
すべては、今ここで所在なげに佇んでいるこのプレゼントから始まる。そんなことを考えていると、ほんのわずかに思考が上向きになった。
二人分のマグカップを持った小町がリビングに戻ってくる。湯気を上げるコーヒーから放たれる香ばしい匂いが、瞬く間に室内に満ちていった。
小町の誕生日まで、あと五分を切った。
僕は、なにも口にできない。彼女の方を見ることもできなかった。僕たちは黙ったまま、そのときを待った。
秒針が存在しないその壁掛け時計が十二時を指した正確な瞬間を、僕は捉えられなかった。長針と短針が明らかに重なっていることを確認して、それから長針がほんの少しだけ右にずれたのをはっきりと認識して、僕はようやく五月一日を迎えたことを実感した。
日付を跨いでも、僕たちは肩を寄せたまま動かなかった。二人の呼吸の音だけが、ひっそりと部屋を満たしていた。
このとき、僕は一人で勝手に感慨を覚えていた。感傷に浸ってもいた。小町は十八歳になった。そしてその瞬間に立ちあえたことに、達成感のようなものを感じていた。
「小町」
胸の内を去来する思いに蓋をして、彼女の名前を呼ぶ。薄く触れ合っていた身体を離し、僕は彼女を見た。
小町は、静かに涙を流していた。
嗚咽も、しゃくり上げることも、身体を震わせることも、声を上げることもせず。彼女はただ、静かに涙を流しているだけだった。
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