Happy Birthday②
それから四月三十日まで、僕たちは穏やかにすごした。特筆すべき出来事はなかった。平日は学校に通い、週末にはデートをした。そして、片手で足りるほどの数のキスをした。
その間、誕生日の話題が上がることは一度としてなかった。けれど僕は、心のうちでずっとその日のことを考えていた。
誕生日の前日に、小町の家に泊まる。それはどういうことを意味するのだろう。
期待と、緊張と、わずかばかりの覚悟。どれも実体を持たず、観念的で、具体性を欠いている。けれど僕には、それ以上のことを思い浮かべることがどうしてもできなかった。示唆や予感といった、掴みどころのない抽象的なイメージで満たされてしまうのだ。そんな自分が情けないという思いはある。けれどそれと同じだけ、安堵も覚える。具体的な願望をイメージできないうちは、軽率な行動に出ることもないからだ。小町の意に染まない行為に及んで、嫌われたり、傷つけたりすることだけは、なにがあっても避けたかった。
小町へのプレゼントは、サイフォンにした。彼女がコーヒーを好んでいるからだ。
僕は、英字新聞がプリントされた包装紙でラッピングされたサイフォンを、自分の部屋の机の上に置いた。そして、勉強の合間などにそれを眺めながら、小町のことを思った。もうすぐ誕生日を迎える、自分の恋人のことを。
クールで、美しく、潔く、揺るぎない自己を持って生きている、そんな女の子。僕のことを好きだと言ってくれる、世界で一人だけの女の子。
こんな風にして僕が小町のことを思うように、小町もまた、一人で過ごしているときに僕のことを思い浮かべる瞬間があるのだろうか。もしもそうだとしたら、彼女の想像の中で、僕は一体どんな風にイメージされているのだろう。
そんな風な不確かなことを考えるのは心楽しくもあり、切なくもあった。
四月三十日がやってきた。その日は雲が多く、肌寒い日だった。
朝、小町と僕はいつものように教室で顔を合わせた。あくまでも誕生日の前日だったので、おめでとうだとかその手の言葉は言わず、いつものように取るに足らない話をした。
小町は、人知れず十八歳になろうとしている。
そして僕は今夜、その瞬間に立ち会う。
そんなことを考えながら、僕は普段通り黙々と授業を受け、普段通り中庭で小町と昼食をとり、放課後を迎えた。
終礼の挨拶の後、小町はすぐに教室を後にしてしまった。きっとこれから家に帰って二人分の夕食を作るのだろう。長い間一人暮らしをしているはずなのに、彼女がキッチンに立っている姿というのは、うまく想像できなかった。
僕は家に帰って、シャワーを浴びた。そして、念入りに歯を磨き、口元に生えかけていた髭と産毛のちょうど中間のような毛を丁寧に剃った。僕のそんな様子を、たまたま仕事が休みで家にいた母親にばっちりと見られていた。友達の家に泊まるにしては随分と身だしなみに気を遣うのね、と洗面所の鏡越しの視線が訴えていた。
机の上にずっと置いていたプレゼントを手に取る。薄らと積もっていた埃を丁寧に払って、あらかじめ雑貨屋で買っておいたギフト用の紙袋の中にしまう。それだけで、僕は為すべきことを一つ為したような気持ちになった。
着替えは持っていくべきだろうか、と悩んだ末に、なにも持っていかないことにした。荷物が増えてしまうのが煩わしいというのもある。それに、小町が出迎えてくれたときに、僕があんまり多くの荷物を抱えているのを目の当たりにすると、きっとなにかを感じとってしまうだろうという気がした。僕は、僕が抱える、僕自身ですらもうまく手懐けられそうにない望みを見透かされることが、怖かった。
日付が変わった瞬間に、小町へ祝福の言葉を送ろう。一緒にプレゼントの包装を解こう。僕の贈ったプレゼントを喜んでくれるだろうか。できることなら、サイフォンで淹れたコーヒーを二人で静かに味わいたい。淹れ方がわからないと彼女が言うのであれば、僕が教えてあげたい。
そうして、小町の十八歳の誕生日が思い出に残るものになればいい。
精一杯の想像力を駆使して、僕はそんな理想を思い描く。理想と呼ぶにはあまりにありきたりで、保守的で、どこか稚拙で、そして当然のように独り善がりな夢。
二人で夜を過ごすことへの期待と、目には見えない小さなプレッシャーに押しつぶされそうになりながら描いた、僕の些細な夢だった。
六時に家を出た。迷った末に、僕はコンビニに寄って旅行用の歯磨きセットを買った。抜かりない彼女のことだから、僕の分の歯ブラシだって用意しているだろう。けれど、それを当てにしていると思われたくはなかった。
考えすぎだという自覚はあった。今夜のことを意識するあまり、少しナーバスになっているのかもしれない。
そんなことを思いながら、僕は小町の部屋を目指す。
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