Happy Birthday

 冬休み以降、小町とは映画を観たり、服を選んだりと、僕たちらしいと言えば僕たちらしい、代わり映えのしないデートを重ねていった。クリスマスは彼女が伯父の家族と一緒に過ごすとのことで会えなかったけれど、正月には折原も含めた三人で初詣に出かけた。

 恋人同士になってからというもの、小町の有する積極性は、よりその性質を強めていた。デートの度、小町は「好きよ」と僕に対する思いを口にする。人目につかない場所ではそっと背伸びをして唇を重ねてくる。そもそも照れや遠慮という概念が、彼女の中には存在しないのかもしれない(もっぱらそれを体現するのは僕の方だった)。

 バレンタインの日には、「普段から伊勢君には気持ちを伝えているつもりだけれど」という嘆息混じりに、デパートで売っているような高級感漂うパッケージのチョコレートをもらった。ホワイトデーのお返しはいらないと言われていたけれど、三月十四日には僕もデパートで見繕ったものを彼女に手渡した。

 そんな風に、僕と小町は恋人同士の日々を送っていた。そして、小町と過ごす時間が増えれば増えるほど、自分の中で彼女を求める気持ちが高まっていくのを感じていた。

 小町を求める気持ち。うまく言えないけれど、それは僕の中で小町を思う気持ちとはまた別のカテゴリとして普遍的に存在しているような気がした。

 一緒にいたいと願うことは、小町を求める気持ち。一緒にいることであふれそうになるのは、小町を思う気持ち、言葉を聞きたいのは、小町を求める気持ち。キスをするのは、小町を思う気持ち。それが事実ではなくただの自己満足にすぎなくとも、そうやって彼女に対する感情を分別することができた。

 僕たちが恋人同士の関係にあるという事実は、時間の経過とともに周囲に定着していった。僕も小町も揃って暴力沙汰で処分を受けた者同士ということで、その事実を揶揄するような声が時折耳に入ってきた。僕を取り巻く状況そのものは、二学期の時点と大差がないはずなのに、不思議と気持ちが波立つことはなかった。もしかしたら、耳障りな雑音に対する耐性が、小町と一緒にいることで強まっているのかもしれない。

 四月を迎えると、僕たちは三年生になった。国公立大学を目指している僕と外大を目指している小町は、進級に際して行われた進路別のクラス分けの末に晴れて同じ文系の特進クラスとなった。ちなみに折原は『東京の大学』というざっくばらんな括りで進路を表明していて、そのせいもあり僕達と同じ特進クラスになることができなかった。

 四月二十日。その日の昼休み、僕と小町は人の少ない中庭で、パンを食べていた。風もなく、青々と晴れ渡る空が果てしなく広がる気持ちの良い午後だった。僕も小町もブレザーを脱いで、カッターシャツですごしていた。

 けれど、そんな素晴らしい天気のもとにあって、小町はどこか上の空な様子だった。

「そういえば、折原が彼女と駅前を歩いていたら、ファッション雑誌の取材を受けたそうだよ。カップル特集を組むから写真を撮らせてくれって」

「そう」

「その写真が掲載されるのが再来月に発売される八月号だって」

「ふうん」

「夏に出る分だからって、二人ともTシャツ一枚にさせられて」

「そう」

 こんな具合に、僕がなにか話しかけても、小町は考え込むように正面を見据えたまま、機械的な相槌を打つだけだった。

 思えば、四月も折り返しを過ぎたあたりから、彼女は日常的になにか考え込む様子が目立つようになっていた。特に思い悩むような表情をしているわけではなかったが、眉間のあたりに目には見えない皺が刻まれているような、張り詰めた様子がずっと続いているのだ。そのことについて僕は今日までなにも訊ねなかったけれど、こう何日も思案げに表情を固めている様子を見せつけられると、まるで声にならない独り言を呟いている傍に立ち会っているかのような気分になって、いよいよ口を挟みたくなってしまう。

 僕は、同じベンチに座っている小町にそっと視線を向ける。ほんの数ミリだけ細められた目元。控えめにマスカラの乗った長い睫毛。そこだけ新雪が敷かれたかのように白い肌。神秘的に閉じられた唇。ほっそりとした顎のライン。いつまでたっても目に慣れるということのない綺麗な横顔が、今はどうしようもなく物憂げに映る。

「ねえ、小町」

 パンを食べ終えた僕は、意を決して名前を呼んだ。しかし、彼女は反応を示さず、視線を動かすこともなかった。

「小町」

 今度は少しだけボリュームを上げて呼びかける。そうすることでようやく彼女は僕の声に気づいたようだった。

「どうしたの」

「もしかして、なにか悩みごとでもあるのかな」

 こうやって単刀直入に訊ねてみても彼女がまだ僕になにも話そうとしないなら、きっと僕に話しても仕方がないことを抱えているのだろう。例えば、英会話のレッスンで行き詰まっていたりだとか、そんな悩みを。

「悩みごと、ね」

「僕には言えないことなのかな?」

 情けないと思いながら、そう訊ねることを止められなかった。

「いいえ」

 と言って小町は首を振った。長い髪が揺れて、薄荷混じりの彼女の匂いがする。

「むしろ逆よ」

「逆?」

「伊勢君に言えないことではなくて、伊勢君にこそ伝えたいことがあるの」

 思いもよらない言葉に、僕は混乱してしまう。

「つまり君が最近上の空だったのは、僕に伝えたいことがあったから、ということ?」

「そう。私はあなたに伝えたいことがあるの。それをいつ、どんなタイミングで、どのようにして打ち明けようか、そのことで悩んでいたのよ」

「そっか」

「ええ」

 沈黙が、春の日差しにさらされる。僕は彼女が口を開くのを待った。

「伊勢君」

 背中を丸め、視線を落としていた僕は、小町の声で浮上する。穏やかな無表情のまま僕を見つめる小町は、呼吸が滞りそうになるほど綺麗だった。

「五月一日」

 と小町は微かな声でつぶやいた。

「五月一日?」

「なんの日だと思う?」

 今日が四月二十日の火曜日だから、と僕は頭の中のカレンダーを捲る。

「ええと、土曜日で、ゴールデンウィークの真っ只中?」

「カレンダー上はそうね」

「カレンダー上の話ではなくて?」

「ええ。もっと個人的な話よ」

 僕は頭の中のカレンダーを捨てて、小町のことを考える。小町の、個人的なことを。

 そして、一つの可能性に思い至った。

「もしかして、小町の誕生日?」

「正解」

 およそ称賛するときのトーンとは思えない平坦な声だった。

「そうか、五月一日が誕生日だったんだ。知らなかった」

「無理もないわ。ずっと触れないようにしてきたもの」

「中学のときに誕生日会をきっかけに面倒な目にあったから?」

「ええ。その話をしたときに私が言ったこと、覚えてる?」

 しばらく考えてみたけれど、思い浮かぶものはなかった。

「どんなことだろう」

「誕生日を祝い合うことはしない、ということよ」

 そう言われて、僕の記憶はすぐに蘇った。

「そういえば、そんなことを言っていたね」

「その言葉を撤回するわ」

 小町の瞳は、まったくぶれることなくじっと僕を捉えていた。切れ長の目もとの奥で光る茶色い瞳には、僕の姿が映し出されていた。

「四月三十日。金曜日。先勝。私の誕生日の前日」

 まるでカレンダーをそのまま読み上げるかのような機械的な調子でそう言ってから、小町は僕から視線を落とした。

 その瞬間、彼女が恐らくは無意識のうちに築き上げていた、外の世界に対して働きかけている意思のバリアは消失してしまっていた。そうして取り繕うことをしなくなった小町という存在は、僕の目に驚くほど脆く、不確かに映った。

「――その日の夜は、私の傍にいて」

 消え入りそうな声。それは、わずかな傲慢さを滲ませた分だけ痛々しい、切実な響きだった。その意味や理由を考えるより早く、僕は頷いた。小町が求めているのは言葉ではなく、たしかな了承だと思ったからだ。

「わかったよ」

 遅れること数秒、僕は頷いた。そうすることで、答えを揺るぎないものにした。

 小町は僕を見た。そして、薄らと笑みを浮かべた。

「伊勢君」

「うん?」

「私のこと、重く感じていない?」

 それは唐突な問いかけだった。けれど彼女は、僕の答えを心から望んでいるようだった。

「重くないよ」

 と僕は答えた。

「今はまだね?」

「今もこれからも」

「その断定は危険だわ」

「そうかな」

「そのうち、不当に伊勢君を縛りつけるようなことを言いだすかもしれないわよ」

「例えばどんな?」

「私以外の異性と一生口をきいてはいけない、とか」

「小町が心からそうしてほしいと望むなら、僕も努力してみせるよ」

 僕はわりと本気でそう答えたつもりだったけれど、小町はなぜか興が削がれたように短いため息をつき、視線を僕から離した。

「まったく、伊勢君の思考体系は私の手に余るわね」

 独り言のように小町はぽつりとそう呟く。

「難しいもんだね」

 他人事のようにそう言った僕を無感情に一瞥して、小町はなにかを遮断するようにゆっくりと瞬きをしてみせた。

 それから小町は、しばらく黙ったまま正面を見据えていた。目の前を行き過ぎる無色透明な風の中になにかを求めるような、そんな目をしていた。暖かく注ぐ春の日差しが彼女を象徴する長い黒髪を淡い茶色に染めている。そんな風にして柔らかく浮かび上がった小町はとても綺麗で、とても頼りなく映る。

「伊勢君」

 小町が僕に視線を向ける。ほんの僅かに顔を動かしたせいか、彼女の肩からさらりと髪の毛が落ちた。

「うん?」

「最終確認をさせて」

 と小町は言った。

「最終確認?」

「四月三十日の夜、伊勢君は本当に私の傍にいてくれるのかしら?」

「もちろんだよ」

 前のめりに、被せ気味にそう答える。僕のらしくない様子に驚いたのか、小町は意外そうな表情を浮かべた。しかし、その少しだけ開かれた瞼はすぐに元の位置に戻ってしまう。

「ありがとう」

 と小町はクールに言った。

 このとき僕は、恋人の誕生日を初めて一緒に祝えるという幸せを噛みしめるあまり、過ぎ去った疑問について考えを巡らせることを怠ってしまっていた。

 僕は知っておくべきだった。それが叶わないのなら、せめて、知ろうとする意思を持ち併せておくべきだったのだ。

 小町が、誕生日の前日から一緒に過ごしたいという希望を口にすることを躊躇っていた、その本当の理由について。

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