幸福のループ
「折原君とは会った?」
「朝に会ったよ」
「彼、なにか言っていた?」
「お幸せにって」
「そう」
満足そうに小さく頷いて、小町は微笑を浮かべた。
「折原に、僕たちのことは話したんだね」
「隠しておくようなことじゃないもの。それとも、やっぱり一番の友人には自分の口から話しておきたかったのかしら?」
「別にそういうわけじゃないけど」
それにしても――と僕は思う。
僕は、目の前に座るこの美しい女の子とキスをしたのだ。それ自体、なんだかとても信じられない気がするけれど、実のところ最も実感が乏しいのは、小町が僕のことを好きだと言ってくれたという事実そのものだった。
「珍しいわね」
小町の言葉に、僕は思考を浮上させる。
「なにが?」
「伊勢君が、私のことをそんなにまっすぐ見つめてくるなんて」
リラックスした風ないつもの無表情でそんなことを言われてようやく、僕は小町からずっと目を離していなかったことに気づいた。そして当然の反応として、熱くなった顔を彼女から逸らしてしまう。
「ねえ伊勢君、あなた今、なにを考えていたの?」
単刀直入にそう訊ねられると、取り繕おうとする気持ちさえ削がれてしまう。僕は正直に考えていたことを口にした。
「今でも信じられないんだよ。僕と君が、その……両思いだなんて」
小町は揺るぎない視線をこちらに向けながら、僕の言葉を脳内で処理している様子だった。そして一つ瞬きをして、「私は」と話し始める。
「初めて伊勢君を見たときから、こうなるんじゃないかって予感がしていたけれど」
返ってきたのは、にわかには信じがたい言葉だった。
「どうして?」
思わぬ返事に声が上ずりそうになりながら、そう訊ねる。小町はしばらく黙ったままテーブルに視線を落としていたけれど、やがて「順を追って話すわ」と切り出した。
「最初に白状するけれど、最初にあなたたちと仲良くしようと思った理由って、とても自己中心的なものだったのよ」
「自己中心的な理由、か」
それは、小町らしいようでらしくない、どこか内省的な言葉のチョイスだった。
「中学生の頃から、一人で歩いているだけで知らない男の人に声をかけられることが増えたわ」
薄らと表情をしかめながら、彼女はつまらなさそうに続ける。
「なにを言われても無視してあしらっていたんだけど、段々そうするのも煩わしくなってね。伊勢君も知っての通り、私は個人主義だし、クールに孤高を貫くのも悪くはないと思っていたけれど、無用なトラブルを抱えないためには隠れ蓑も必要なのかもしれない、って実感したの」
「それが自己中心的な理由?」
「そうよ。かといって、同性同士でつるむのは私の性に合わないの。ほら、伊勢君にも誕生日パーティーにまつわるあのくだらない出来事を話したでしょう? 私が私のままでいる限り、ああいったトラブルはきっと避けられないのよ。となると、おのずと選択肢は限られてくるわよね」
「上辺だけじゃない付き合いができる友達」
「でも、そんなものはとてもできる気がしなかったわ」
「それで異性の友達を作ろうとした?」
僕がそう言うと、小町は頷いた。
「消去法的にね。もちろん、隠れ蓑の役割だけ果たしてあとはドライに接してくれるような、そんな都合のいい男子がこの世に存在するわけがないわよね。だから、隠れ蓑の役割を担ってくれる男子を探す上で、私も覚悟を決めたのよ。私が見定めたその男子を、信じる覚悟をね」
覚悟。それは、確かな意志を伴っている、とても強く、孤独な言葉だった。
入学した当初の、周囲を寄せ付けない雰囲気の小町が、僕たちにだけ関わることを許容した理由を、ようやく知ることができた。彼女は、僕たちと行動を共にすることで、無遠慮に寄せられる煩わしい関心を最小限の量に抑えようとしていたのだ。
「なるほど、それで最初に折原を信じてみようと思ったわけだ」
まだ小町と出会って間もない頃――こうして思いが通じ合うだなんて考えてもみなかった頃――僕はなにかのタイミングで、同じようなことを小町に訊ねていた。そんな些細なことを記憶していることに自分でも驚いた。あるいは、そのときの小町がはぐらかすような態度をとっていたのがとても新鮮で、印象に残っていたのかもしれない。
「折原君?」
そして今、小町は意外そうな表情を浮かべている。まるでこちらを窺うようなその反応に、僕の方が戸惑ってしまう。
「だってそうだろう? 入学したとき、君に初めて話しかけたのは折原だし、僕はあいつを経由することで君とこうして仲良くなれたんだから」
僕がそう説明すると、まるで雲が流れて晴れ間が覗くようにして、綺麗な笑顔が現れた。
「それは違うわ。私が信じる覚悟を決めていたのは、最初から伊勢君なんだもの」
喉が、痺れてしまったかのようにうまく動かない。小町の言葉は、僕はこれまでひそかに抱いていた認識を覆すような、にわかには信じがたい衝撃的なものだった。ひょっとするとからかわれているんじゃないかと、そんなことを一瞬だけ考えてしまう。けれど、小町の目は至って真剣なものだった。
「なによ、人が赤裸々に語っているというのに、いまいちな反応ね」
と、しまいには鋭い視線を向けられる始末だった。
「ごめん」
僕は簡単に謝ってしまう。すると小町も目元を緩めて一つため息を吐いた。そして、まるで小さな子どもに言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「入学式の日に初めて伊勢君を見たとき、ピンときたの。どう言えばいいのかしら……私の脳内に漠然と存在していた、私自身ですら上手く把握しきれていない希望や意向を具現化したような――私が探しているのはまさしくこんな男子なのかもしれないって、そう思わせるような存在だったのよ。だからこそ、そんな伊勢君に最も近しい人間であろう折原君が最初に話しかけてきたときにも、まともに応じてみようと思ったの。言っておくけど、私、自分が異性うけのいいことを自覚している人間特有のあの馴れ馴れしいファーストコンタクトって、本当は大嫌いなんだから」
そこで小町は、僕を見つめた。それ以前から彼女の視線はこちらを向いていたけれど、今はまるで視線で愛を語るかのような熱っぽさがあった。僕の顔は、当然のように赤くなってしまう。
「参考までに知りたいんだけど、僕のどういうところが、君の目に留まったのかな」
「清潔感があって、達観してそうで、誠実そうで、波長を私に合わせてくれそうなところ」
言葉に詰まる僕に対してまるで畳み掛けるように、小町は一息にそう言った。
「それは……」
「前に伊勢君の部屋でも伝えたことよ。少なくとも、そのあたりの評価は初めて見たときから少なからず固まっていたの。一年以上かけて、私は自分の覚悟が正しかったことを証明してみせたというわけよ」
コーヒーに口をつけてから、小町は「私の気持ちを理解するにはまだ足りないかしら?」と正面切って訊ねてくる。僕は慌てて首を横に振った。これ以上言葉を尽くされてしまうと、僕はきっと一生かかっても彼女に同じだけの思いを伝えられなくなる。
「伊勢君の散文的な所も好きだけど、こういうときは張り合いがなくてつまらないわね」
と、涼しい顔でそんなことを言う。こんなのは散文的と呼ばない。ただの口下手だ……と、それすらも僕は口に出せずにいる。
けれど、いつまでも口下手なままではいられない。あの日、僕の部屋でお互いに思いを交わした中で最後まで明言されることのなかった僕たちの関係性を、今ここで証明しておきたかった。
「ねえ、小町」
「なに?」
「僕たち、恋人同士になったんだよね」
小町は表情を変えることなく黙っていたけれど、やがて僕の意図に気づいたのか、口許を緩ませる。
「伊勢君は、言質をとりたいのね」
あまりに呆気なく看破されてしまった。僕は、せめて照れてしまわないでおこうと、彼女から視線を外すことなく頷いてみせた。
「あなたの恋人になれて、とても嬉しいわ」
テーブルに肘をつき、わずかに身体をこちらに寄せながら、小町はどこかかしこまった笑みを浮かべる。そして、一言一言に信念を込めるように囁いた。
「私、性格は自分勝手だし、協調性もないけれど、誰にも負けないくらい綺麗よ。そこは絶対的な自信があるの。だから、伊勢君は誇っていいわ。自分の彼女は誰より綺麗だ、って。そうすると、私もずっと美しくありたいと思えるから。それが、私たちの関係性において幸福のループになるの」
――そのことを、よく覚えておいて。
それから、僕は小町を家まで送り届けた。別れ際、彼女の部屋の前で、僕たちは一度だけキスをした。また会えるそのときまで寂しさを感じることがないように、僕は小町の唇の柔らかさと、ささやかな温もりを覚えておこうと思った。けれど、一歩足を進めるごとに、まるで砂時計がハラハラと粒を落としていくようにキスの余韻は記憶の表層から消失していき、アパートの階段を降りる頃にはもう、僕は彼女の部屋を見上げてしまっているのだった。
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