クールに恋をしていた

 終業式の日、実に三週間ぶりに教室へ入ったとき、僕に浴びせられたのは名状しがたい種類の視線だった。クラスメートの誰もが遠巻きに僕を見ているだけで、そこから話しかけくることはなかった。居心地の悪いことになるだろうな、と予想はしていたけれど、実際に身を置くと神経がすり減っていくような気分だった。こういうとき、このクラスで僕にためらいなく話しかけてくるのは、たった一人だけだ。

「一足先の冬休み、楽しんでる?」

 エナメルのスポーツバッグをたすき掛けにして教室に入ってきた彼女のことをこれほどまでに待ちわびたのは、今日が初めてかもしれない。

「できることなら、小曽根にも休みをわけてやりたかったよ」

 僕がそう返すと、小曽根夕菜は小さな白い歯を見せてケラケラと笑った。

「喉乾いた。なんか飲み物買いに行こうよ」

 とスポーツバッグを机の上に置くなり、彼女は僕を誘った。僕たちは、多くのもの言わぬ視線をくぐり抜けながら冷え込んだ廊下へと出た。

「期末テストはちゃんと受けられたの?」

「みんなと同じ時間に、別室で受けさせてもらえたよ」

「じゃあ、学校には来てたんだ?」

「そうだね」

「言ってくれたら顔出したのに」

「一応停学期間だから、他の生徒との交流は禁止されていたんだよ」

「なにそれ。学校まで来させといて、変なルール」

 そんなことを話しながら、僕たちはそれぞれ自販機で飲み物を買い、校舎の脇にあるベンチに腰を下ろした。思わず体に力が入ってしまいそうになるほどの寒さだったけれど、空手部の朝練を終えたばかりの小曽根夕菜は「風が気持ちいー」と笑っていた。

「あの人、かなりしょぼんとしてるみたい」

 自販機で買ったオレンジジュースに口をつけてから、小曽根夕菜は唐突に切り出した。

「あの人?」

「伊勢君がボコボコにしたあの人だよ」

「ああ」

「好きな人を盗られた恋敵に拳でも完膚なきまでにやられたら、そりゃへこむよね。伊勢君、ほんと容赦ないんだから」

 反論したい気持ちがあったけれど、それをどうにか抑え込む。僕の停学処分というのは、一人の人間を傷つけたという、その紛れもない事実に基づいて下されたものなのだ。個人的な感情を差し引いたとしても、今回の件について僕は深く反省する必要があるのだということを、肝に銘じておかなければならない。

「でもさ、あたし、君のことを少し見直したんだよ」

「そう?」

「伊勢君って、もっと冷静で冷徹で冷酷な人だと思ってた。でも、ちゃんと血の通った人間だったんだね」

「僕だって、好きな人のことをとやかく言われたら相応に腹が立つよ」

 教師はもちろん、小町にさえ口にしようとは思わなかった事実を、不思議と小曽根夕菜には躊躇いなく告げることができた。

「ねえ、伊勢君」

「うん?」

「あの人の気持ち、今ならわかる?」

 あの人の気持ち。僕が殴って、怪我を負わせた、あの男の気持ち。決して理解できないし、したくもないと思っていた。

 けれど、今ならば。

 小町という存在をもう少しで手放しそうになった今の僕には、あの男の行動原理が、薄ぼんやりと理解できてしまうのだった。

「多分」

「ふうん、そっか」

 小曽根夕菜は、真意をぼかすような曖昧で不思議な笑みを浮かべてみせた。

「小曽根は、最初からわかっていたの?」

「まあね」

 当然のように頷かれて、僕は驚いた。こちらの心中を察したのか、彼女はそのまま続ける。

「だって、人を好きになるってそういうもんじゃん? あたしに言わせれば、伊勢君がちょっとクールに恋しすぎだったんだよ」

 ――まあ、その評価も覆ったんだけどね。

 小曽根夕菜はどこか嬉しそうに表情を緩めてそう言った。具体的なことはなにも話していないのに、彼女には僕と小町の間に起こったことを薄らと見透かされているような気がした。なんとなく恥ずかしくなった僕は、冷めかけたカフェオレを一気に飲み干し、ゴミ箱に空き缶を放った。

 終業式を終え、放課後を迎えると、僕は教室を飛び出した。

 冷たい風が吹き荒ぶ中、黙々と足を進めていく。そのうち、シャツの中はうっすらと汗ばんできた。首元を温めていたマフラーを外し、カバンの中にねじ込む。そして、待ち合わせ場所に指定した僕のバイト先の喫茶店に急いだ。

 目的地にたどり着いたとき、僕は全身にじっとりと汗をかいていた。中に入ってテーブル席に着くと、すぐにブレザーを脱いだ。息はまだ荒く、心臓は弾んでいる。店の中は当然暖房が効いていて、これならばまだ外で待っている方がましだと思える。途中から歩調を緩めればこんなにもならなかったはずだけれど、どうしても足が止まらなかった。

 キスをしたあの日以来、僕はずっと小町のことを考えていた。会いたくて、声が聞きたくて、大げさではなく本当に胸が痛くなるような日々だった。

 客の来店を知らせるカウベルが鳴る。出入り口の方に目をやり、入ってきた客の姿を見るなり、落ち着きかけた心臓がまた弾み始める。

「久しぶりね」

 冬の冷たい小川のように澄んだ、僕が聞きたかった声。

「久しぶり」

「会いたかったわ」

 僕の向かいに腰掛けるなり、不意打ちのように現れる、ストレートな思いが乗せられた言葉。表情こそ普段通りのクールなものだったけれど、白く艶やかな肌はここに来るまでに晒されてきた外気のせいでほんのりと赤く色づいている。その様子が、とても魅力的だと思った。

「僕も会いたかった」

 同じ言葉を借りているだけだというのに、まるでとんでもなく気障なことを口走ってしまったかのような恥ずかしさがあった。

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