ロマンの正体

 小町の唇は、僕がこれまでに触れてきたどんなものより柔らかかった。僕は息を止め、思考を止めた。目を閉じて、小町の唇を感じ、記憶に焼き付けようとした。

 やがて、小町が僕から離れていった。僕たちが唇を重ねていた時間は十秒となかったはずなのに、彼女の感触が遠ざかったことで、僕はずっと手にしていた大切なものを手放してしまったかのような、とても心許ない気持ちになった。

「伊勢君」

 小町が、改まった様子で僕の名前を呼ぶ。

「私、伊勢君のことが好きよ」

 そう、噛み締めるように宣言したのを耳にした瞬間、さっきまでの彼女がどうして僕の言葉を強く望んでいたのか、その理由がわかったような気がした。

 だから僕もそれに応じる。

「僕も小町が好きだ」

そうやって、なんの含みもなく思いを伝えることで、自分がどれだけ小町を思っているのか、そのことを再認識する。

「それは、どんな好き?」

 一言では飽き足りず、貪欲に確認しようとする彼女がおかしい。僕は零れ出る笑みを滲ませながら、初めて会ったあのときのように、気の利いた言葉を探した。

「すべてのマイナスがプラスに転じるような、そんな好き」

 小町が、つられたように目を細めて笑い、ゆっくりと顔を近づけてくる。僕は目を閉じた。二度目のキスだった。彼女のかすかな息遣いが、僕を震わせる。

 キスをしている間、小町に対する愛おしさは止まることなく溢れてきた。誰かを好きになると、こんなにも幸福感に包まれるのだということを、僕は初めて知った。

 再び唇が離れる。さっき僕を襲ったあの心許なさはもう消えていた。部屋はとても静かで、聞こえるのは自分の心臓の音だけだった。

「キスって、想像よりずっと気持ちいいものだわ」

 僕を見上げながら笑う小町の白い頬に、僅かに朱が差していた。彼女が顔を赤く染めている姿を目にしたのは、正真正銘これが初めてのことだった。

 小町の蕩けてしまいそうな表情に頭がどうにかなってしまいそうで、僕は無言で部屋を出てしまった。

 廊下は十二月の冷気でひんやりとしていた。照明がついているのは、小町が操作したからだろう。担任教師を尾行して僕の家を探し当て、日の暮れた冬空の下で待ち続け、インターホンからの返事がないまま敷居を跨いであの部屋まで辿り着いた彼女の行動力に、僕は感服しないわけにはいかなかった。

 もしも小町のその行動力がなければ、僕はきっと今もまだ己が生み出した深淵に呑まれていただろう。そして暗く重苦しい自己嫌悪に包まれて、小町を思う気持ちさえも黒く塗りつぶされていたのかもしれない。現実との落差を想像して、恐ろしくなる。

 どうせ出てきたのだからと、台所で温かいコーヒーを入れてから部屋に戻った。小町は僕のベッドの上で仰向けになっていた。

「ブレザーに皺がつくよ」

 スカートから伸びた黒いストッキングに包まれた細い足や、敷布団の上で扇のように広がる黒い髪をあまり視界に入れないようにしながら、僕は忠告した。

「いいのよ、そんなの」

 小町はさっきまでの僕と同じように目元に手の甲を当てながら、透き通りそうなほどに白い指の隙間から天井を見ていた。

「伊勢君の匂いがするわ」

「毎日そこで寝てるからね」

 停学中のほとんどの時間はそのベッドの上で過ごしていたことは、彼女には話せないなと思った。

「外、寒かったよね」

 湯気を上げるコーヒーを勧めようとしたけれど、どうもうまい言葉が出てこない。自分のベッドに小町が横たわっている姿というのは、絵に描いたように煽情的な光景だった。僕はどうにか彼女に触れることなくベッドから引き離す方法はないものか、と考える。

「平気よ。伊勢君に会うことしか考えていなかったから」

「意趣返しのために?」

 僕がそう言うと、小町はしばらく考え込むように沈黙し、それから声を出さずに笑った。過ぎ去った思い出を懐かしむような、そんな笑い方だった。

「あれは、私自身を奮い立たせるための方便ね」

「この部屋で最初に君の姿を見たときは、本当にそういう不穏なものを抱えていそうな険しさがあったよ」

 僕がそう言うと、小町は目元から手を退けて、それから僕の方へ体を向けるように小さく寝返りを打った。ベッドに散らばった髪の毛がわずかに乱れる。さっきとは真逆の立ち位置で、僕たちは見つめ合う。

「不安だったのは、伊勢君だけではないのよ」

 小町の声は、それまでと打って変わって弱々しいものになった。

「色んな噂が飛び交っていたわ」

 僕が校内で暴力行為を働き停学処分になったこと。そしてその一件に小町の存在が関わっていたこと。掛けあわさった二つの事実は様々な憶測を呼んだ。中でも一番多かったのは、僕とあの男で小町をとり合っていたのではないかという話だった。

「好奇心って、人を積極的にさせる作用があるのね。普段は絶対に話しかけてこないようなクラスメートから、色んなことを訊かれたわ。その度に私は相手の男のことは知らないと言い切ったんだけど、それでも、憶測は一人歩きしていた。中には、私が二人をけしかけたんじゃないかというものまであったのよ」

 きっと、話を聞いている僕は、不安が表情に出ていたのだと思う。小町はこちらを見上げながら、小さく笑みを作った。

「ねえ、そんな顔をしないで。知っているでしょう? 私はそんなことでいちいちへこんだり、ナーバスになったりはしないわ。私のことを知らない人に陰でなにを言われていようが全然気にならないし、直接訊ねられれば否定するまでだもの。でも……」

 そこで小町は言葉を切る。そして、同じ音階をなぞるような平坦さで言った。

「伊勢君と会えない時間が続いたのは、とても辛かった」

「……ごめん」

「どうしてあんなことになったのか。どうして私を避けるのか。今はどうしているのか。全部伊勢君の言葉なしには知り得ないのに、あなたは電話に出ようとしなかった。メールを送っても、返事はなかったわ」

「それでも、折原には頼らなかった?」

 と僕は言った。

「伊勢君に会いたいと言えば、きっと彼なら快くここまで連れてきてくれたでしょうね。もちろん私もそうすることは考えたわ。けれど、どこかで自負があったのだと思うの」

「自負?」

「伊勢君への思いに対する自負。私たちに誰より近い彼にこそ、私は甘えたくなかったのかもしれない」

 まったく、実に小町らしい選択だな、と僕は思った。常識や合理性を塗りつぶす、強い感情に基づいた意志。それは、僕が好きになった彼女の姿そのものだった。

「私、伊勢君と会えないことで相当参っていたと思うの。本当に、不安でどうにかなりそうだったのよ。学校で誰にどんなことを言われようが平気なのに、少し伊勢君と会って話ができないだけで、全然気持ちが落ち着かなかった。それで、私は伊勢君のことが好きなんだと思い知ったわ」

「え?」

 唐突に挟まれた告白に、僕は間抜けな声を上げてしまう。

「会えなくなったことで初めて、私の中には私が自覚している以上に伊勢君への思いが眠っていたんだって気づいたのよ。そうしたらね、今度はなんとしても伊勢君の気持ちを確かめたくなったわ。それを知ることで、自分の中の気持ちにも答えが出ると思ったの。いつも冷静で、合理的であろうとしていて、その信念を実践している伊勢君が、私のために体裁も倫理も捨てて戦ってくれたと知って、とても嬉しかったわ。ねえ伊勢君、こうして話している間にも、私の中からあなたを好きだと思う気持ちが溢れてくるのよ?」

 最後の方はもう、気恥ずかしくて小町の顔を見ていることができなかった。思いを交わし、キスという行為を経て、彼女はさらにパワーアップしているように思えた。なんだか馬鹿みたいな表現だと思うけれど、今の小町を表す言葉が他には出てこなかった。

「コーヒー、いただくわね」

 そう言って彼女が自発的にベッドから離れたことに、僕は内心救われた気分だった。小町は僕の勉強机から椅子を引き出して、そこに座りながらブラックのままのコーヒーに口をつけた。僕は自分のカップにシュガーとミルクを足して、迷った末に小町が離れたベッドに座った。

「今はもう、不安はない?」

 僕はそう訊ねた。

「相手の気持ちに対する不安というのは、消えることはないと思うの」

 彼女の言いたいことは、僕もなんとなくわかる気がした。

「芽生えた不安を刈り取るために、言葉を求める」

 僕の言葉に小町はそっと頷いた。

「そして、信頼を寄せようとする」

 小町の言葉に、僕もまたそっと頷いた。

 現実は、ロマンを感じさせない。より正確に言うと、ロマンは現実に付き従う形でしか存在し得ない。どんなに頭をとろけさせるような甘い気持ちを覚えたとしても、その気持ちを支えているのは、不安を刈り取るために積み重ねてきた言葉と、まさに小町が口にした、相手に信頼を寄せようとするその姿勢なのだと思う。僕たちにできることといえば、それらに少しでもロマンを付随させようと努めることくらいだ。ひどく散文的な考え方なのかもしれない。けれど、それは僕が今回の一連の出来事で学んだ数少ない教訓だった。

「伊勢君、ご両親はまだ帰ってこないの?」

 キイ、と音を立てて椅子の背もたれに背中を預けた小町がそう訊ねる。

「多分、もうすぐ帰ってくるよ」

「会ってみたいわ」

「会ったって愉快な気持ちにはならないよ」

 小町はなにも言わず、コーヒーに口をつけた。僕も黙ってコーヒーを飲んだ。

「帰るわ」

 やがて、床に置いていたマフラーとカバンをとり、小町は帰り支度を始めた。僕はまだ彼女の唇の感触が頭から離れずに、ベッドから立ち上がれずにいた。部屋を出る直前、彼女は僕の方を振り返る。白い頬と黒い髪のコントラストが、とても遠く感じられた。

「また学校で会いましょう」

 そう言って小町は、僕の返事を待たずに行ってしまった。やがて玄関の扉が開き、閉まる音がした。僕はベッドに背中から倒れこんだ。ベッドからは、うっすらと薄荷の匂いがした。


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