小町がいた

「僕は君に恨まれていたんだね」

 右手の甲で目を覆いながら、僕はどうにかそう返すことができた。

「ポーランドに発つ前の日、伊勢君は私の意思を無視して家までおしかけてきたわね」

「そんなこともあったかもしれない」

 そうやってとぼけてみても、小町は特に反応を示さずに淡々と続けた。

「だから今日は、私を拒否し続ける伊勢君の前にこうして無理やり来てあげたわ」

 僕は観念して目元から手を退けた。そしてのろのろと体を起こす。

「僕の家は、折原に訊いたの?」

「折原君なんて頼らない。意趣返しは自らの意志と労力によって成されるものよ」

「じゃあ、どうやって」

「さっきまで、あなたのクラスの担任が来ていたでしょう?」

 僕はその問いかけの意味を考えた。

「もしかして、尾行してきた?」

「その通り」

 当然のように肯定する小町に、僕は言葉が出なかった。頭がまだ、彼女がここにいるという現実に適応できていないのだ。

「特に変わりはないようね」

「うん」

 天井の木目を眺めながら、僕はそう言った。

「ひょっとしたら死んでいたりするんじゃないかって、そんなことも考えたんだけど」

「心配かけてごめん」

 返事はなかった。僕の謝罪は呆れるほど独りよがりで空虚なものだった。

「どうしてあんなことをしたの」

 その質問を僕に投げかけてきたのは、生徒指導の教師、担任教師に続いて彼女が三人目だった。けれど、彼らに訊ねられたときとは比べものにならないほど、真実を語ろうとする意思は強固に閉ざされてしまう。

「人を殴ったのなんて、生まれて初めてだよ。相手がどうなったか知らないけど、僕の拳にはいくつか切り傷ができてさ。殴るときは、相手の歯に当たらないようにしなきゃ駄目だね」

 検閲を掻い潜っていくように、表層的な言葉だけを選んで口にする。小町がなにか言う前に、僕はさらに言葉を重ねていく。

「小町もやったんじゃない? 自宅謹慎中の課題。読書感想文なんて久しぶりに書いたよ。マルコムXの自伝を読まされてさ。あれってやっぱり、うちの担任が世界史の教師だからこそのチョイスだと思うんだ。いざ読んでみたら、マルコムXの人生って壮絶だったんだよ。幼い頃に父親がひどい方法で殺されて、母親は精神病院に入って――」

「私のためなんでしょう?」

 僕が紡ぎ出した空虚な言葉は、築こうとしたバリケードは、彼女のたった一言で簡単に崩れ去ってしまった。

「私のためにあんなことをしたんでしょう? お願いだから、そうだと言って」

 天井ばかりを写していた視界に、小町の姿が飛び込んできた。彼女は僕の着ているトレーナーの襟元を両手で掴んで自分のもとへと強引に引き上げた。普段の彼女からは想像もできないような強い力だった。浅い吐息と、肩からこぼれ落ちた髪の毛が僕の顔に優しく触れる。僕はもう、どこにも逃げられなかった。

「私のために腹を立てたと言って。私のために殴ったと言って。私のために沈黙を貫いたと言って。私のことをどう思っているのか、伊勢君の言葉で私に教えて」

 ――私はまだ、なにも聞かされていない。

 照明を背にしているせいで影が下りている一対の瞳には、焼き切れてしまいそうなほどにありありとした意志が宿っていた。小町は、僕の言葉だけを求めていた。

 どうして君は、そんなにまっすぐ見つめてくるんだ。自分の心にも、なにより大切な存在にも向き合えない、こんな無様な僕を。

 行き場をなくした僕の意思と感情は、涙となって流れた。小町の燃えるように熱を帯びた瞳に射抜かれながら、僕は泣いた。不思議と苦しさはなかった。涙は、自然に溢れていた。

「不安になってしまったんだ」

 僕は声を震わせながら、ついに抱え続けていた後悔を口にした。

「最初は聞き流せていた言葉も、繰り返されていくうちに無視できなくなった。そんなわけがないって何度言い聞かせても、最終的に僕は、あいつの言葉を真実として捉えてしまった。そのことが悔しくて、怖くて、情けなくて……」

 それ以上はなにも言えなかった。襟元を掴む小町の手が緩み、僕は再びベッドに倒れこんだ。右腕で目元を覆い、吐き出せぬまま残った言葉とともに滞った呼吸を喉から押し出した。涙はこめかみを伝って、ポロポロとベッドへと流れていった。

 ベッドが軋んだ音を立てる。小町が座りこんだ気配がした。

「その人から、なにを言われたの」

「小町と僕が釣り合っていないってこと」

「他には?」

「小町は僕のことを好きじゃないって」

「伊勢君は、その言葉を真に受けてしまった?」

 この期に及んで、取り繕いたいという気持ちがどこかに存在していた。けれど、ここで自分の気持ちをごまかしてしまったら、きっと僕は今よりもずっと自分のことが許せなくなると思った。

「うん」

 涙は止まり、呼吸も平常時のように落ち着いた。けれど、小町からの返事はなかった。僕は視界を覆う右腕を退けられないでいた。

「つまり」

 小町が口を開く。なにを言われるのか想像もつかず、体は強張った。

 しかし彼女が放ったのは、まったく予想外の言葉だった。

「伊勢君は、私のために戦ってくれたのね」

 僕は右腕を外し、小町の方に目をやる。ベッドに腰を下ろした彼女はストッキングに包まれた足を組みながら顔をこちらに向け、慈しむような笑みを浮かべて僕を見つめていた。

「どうしたらそんな風に解釈できるのかな」

「どうしたらもなにも、あなたの言うことをそのまま汲み取ったまでよ。伊勢君は私のために、その人と戦ってくれたんでしょう」

「そんな戦い、するべきじゃなかったんだ」

「でも、私は今の話を聞いてとても嬉しくなったわ」

「どうして」

「それが私のためだからよ。あなたがその人の言葉を否定し続けたのも、最後には真に受けてしまって理性的な判断ができなくなったのも、すべて私のため」

 そんなの、曲解もいいところだ。そう言いたかったけれど、喉が動かない。なにか言おうとしたら、言葉に先立って違う形で感情が流れていってしまいそうだった。

「そして今、伊勢君は私のために後悔と戦っている」

 右手に、冷たい温もりが触れた。小町の手が、僕の右手の醜い傷を覆い隠している。

「……なに言ってるんだよ」

「ねえ伊勢君、私、今とても幸せよ。だって、こんなにも伊勢君の思いを実感できているんだもの。これまで、私に笑いかけてきた人は数え切れないほどいたわ。でも、私のために涙を流してくれたのは、たった一人。伊勢君、あなただけよ」

 小町のもう片方の手が伸びて、僕の睫毛にふわりと触れた。離れていく彼女の冷たい指先を見て、僕は自分がまた涙を流していること、そして、小町に赦されたことを知った。

「ありがとう」

 涙をぬぐいながら、僕は体を起こした。

「それは、なにに対しての礼かしら」

「僕の気持ちを信じてくれたこと」

「それだけ?」

「ここに来てくれたこと」

「まだ足りない。もっと聞きたい」

「僕を見放さずにいてくれたこと。僕の家を突き止めてくれたこと。担任が帰るまで、ずっと外で待っていてくれたこと」

 小町の手を強く握る。ようやく体温が通い始めた小町の手は、今にも溶けてしまいそうなほど柔らかい。

「小町、君のことが好きだ。本当に好きなんだ」

 溜めこんでいた思いが、淀みなく口をついて出る。僕はようやく、小町に心からの気持ちをぶつけることができた。

「私も伊勢くんのことが好き」

 狂おしいほどに求めていた言葉が、簡潔に、明瞭に、力強く届けられた。

 そして、彼女の思いはその一言にとどまらなかった。

「いつも清潔にしているあなたが好き。達観している雰囲気のあなたが好き。誠実であろうとするあなたが好き。私に波長を合わせてくれるあなたが好き。信頼に応えてくれるあなたが好き。なにより、私のために苦しんで、私のために戦って、私のために泣いて、それでもまだ思いを手放さずに私を好きでいてくれるあなたのことが、私は心から好きになったのよ」

 頬を可愛らしく赤らめることも、不自然に視線をそらすことも、言葉に詰まることもせず、小町は真剣に、断定的に、まるで青い炎のような静かな熱を全身から放ちながら、僕への思いを一息に口にした。

「小町は、ものごとを肯定的に捉えすぎる」

「私はものごとを否定的に捉える伊勢君が好きよ」

 そうやって、放った言葉が鮮やかに塗り変えられたことで、自分に降りかかっていた呪いが解けたことを僕は悟った。

 僕は改めて、小町を見つめる。渦巻いていた激情が引いて、今は冷たく透き通っている一対の瞳は、様々なことを僕に訴えかけていた。そして、そこから一番強い感情を、願いを読み取った。その瞬間、僕たちはたしかに心を通い合わせていた。

 手を離し、優しく肩を引き寄せる。目と鼻の先に、小町がいた。クールで、潔く、どこか危うく、そして誰より美しい、花家小町が。

 小町が、瞼を閉じる。音もなく揺れる長い睫毛を目に焼きつけて、僕たちは生まれて初めてのキスを交わした。

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