焦熱

 僕と小町が付き合っているのではないかという噂が囁かれるようになってからというもの、好奇の目と中途半端に潜められて聞こえてくる声が煩わしかった。けれど、そのことで誰かに表立って揶揄されるような事態もなく、僕の懸念をよそに、日々はどうにか穏やかに過ぎていった。日毎に風は鋭くなり、雲は重くなっていき、木々は徐々にその梢を晒していった。冬の訪れを感じながら、僕はどうかこのままなにごともなく二学期を終えられますように、と密かに願っていた。

 けれど、小曽根夕菜の言った通り、どれだけ願ったところで平穏は続かない。僕は、自分に降りかかる悪意や執着に、適切に対処することができなかった。

 その男が最初に僕に話しかけてきたのは、十一月最後の金曜日だった。

「よお」

 朝、僕が登校して教室に入ろうとしたとき、後ろから無遠慮に肩を掴まれた。振り返ると、短い髪をワックスで立てた細い目の男が立っている。面識のない顔だった。上級生か同級生のどちらかだろうな、という他にその男からは一切の情報を読みとることはできなかった。

「お前、伊勢だろ?」

 僕は頷いた。それに倣って彼の方も名乗ってくれることを期待したが、男は自分の言いたいことだけを手短かに口にした。

「花家とデートしたって、マジなのか?」

 今さらその質問か、と僕は内心あきれる思いだった。ようやく噂が終息する気配が見えてきたというこのタイミングで面倒なことになったな、と思わずにはいられなかった。

「お前ら、全然釣り合ってねえぞ」

 僕がなにも言わずにいると、男は僕の肩を拳で叩いた。大した力ではなかったけれど、突然のことに戸惑ってしまう。

 この男とは関わり合いにならないほうがいい。そう判断して、僕は男に背を向けて教室に入った。席に着くと、小曽根夕菜が「さっき話してた人、誰?」と訊ねてきた。「さあ」と僕は答えた。とぼけているのではなく、本当に答えようがなかったのだ。

 小町のことが好きだった男が八つ当たりをしに来た。せいぜいその程度の事情でいちいち真剣に取り合う必要はない。僕はそんな風に軽く考えていた。

 しかし、僕の予想に反して、それから男は僕の前に度々姿を見せるようになった。休み時間や放課後になると一方的に声をかけてきて、なんでお前みたいなやつが花家と一緒にいるんだ、というようなことを口にした。それは不快な雑音に違いなかったけれど、僕は相手にしないように努めた。

 ある日、例の男に関する情報を小曽根夕菜が教えてくれた。

「同じ学年の男子だよ。あたしの友達が、一年のときちょっとだけ付き合ってたみたい」

 思えば、小町が殴った先輩に関する情報を知らせてくれたのも彼女だった。情報の信憑性はともかくとして、その広い交友関係に基づいた情報量には素直に感心させられる。

「最近よく絡まれてるみたいだけど、伊勢君、あの人となんの話をしてるの?」

「多分小曽根も想像がついてると思うんだけど」

「花家さんのこと?」

 僕はため息をつきながら頷いた。

「やっぱり、あいつは小町のことが好きなのかな?」

「なんか伊勢君がそういうこと言うと、敗者を見下す勝者の余裕って感じが出るね」

「人聞きの悪いことを言わないでほしい」

「じゃあさ、伊勢君は本当にわからないんだ? どうして自分がその人に付き纏われているのかが」

「わからないわけじゃないよ。ただ、好意という感情がどうしてあんな形であいつを突き動かしているのかが理解できないんだ」

「納得ができないってこと?」

 とりあえずそれが的を射た表現だと思った。僕は頷く。

「ふうん。伊勢君らしいね」

 皮肉っぽく、そしてどこか諦観を滲ませた様子で小曽根夕菜はそう口にする。

「どういうこと?」

 彼女は、僕の問いかけに答えてはくれなかった。

 その日の休み時間、次の授業が行われる家庭科室へ向かう僕の前に、やはり男は姿を見せた。そして例によって、お前らは釣り合わない、というようなことを言い放った。僕はそれまで通り無視を決めこんだ。

 僕の対応は間違っていない。そう思う反面、男に対してなにも言い返さずに無視を貫いている現状に、少なからず疑問を抱き始めている自分に気づいた。

 僕が沈黙することにより、男の態度は助長しているのではないのか。僕が自分の思いをはっきりと口にしなければ、現状はなにも変わらないのではないか。気がつけば、そんなことを考えるようになっていた。そして、不安に苛まれる度、小町の部屋で交わしたやりとりを思い出して心を落ち着けた。

 それでも、否定的な言葉を繰り返しぶつけられていくうちに、心の中でひた隠しにしている決して触れられたくない部分が刺激されていくのを、僕は密かに感じていた。それらの言葉は、僕自身が心中に薄々抱いていながら、あえて目を逸らしていた可能性を捉え、容赦なく抉り出そうとしていた。

 どんなに忘れようとしても、まるで突発的な発作のように頭の中で忌わしく響く男の言葉を、僕は必死でやりすごそうとした。特に小町や折原と一緒に過ごしているときには、余計なことを考えないようにした。彼ら……特に小町には、僕が抱えているこのトラブルを隠し通しておきたかった。

 けれど、十一月の最後の月曜日。男と何度目か分からないほどの対面を果たしたとき、僕はとうとう、それまで貫いていた無視の姿勢を崩してしまった。

「お前にそんなことを言われる筋合いはない」

 そのとき、僕は自分の声をうまくコントロールすることができなかった。想像以上に大きくなってしまった声に、廊下を歩く生徒が反応し、僕たちの方を注目していた。

「俺は納得できねえんだよ」

 僕が初めて違う反応を示したように、男もまたこれまでとは違う言葉を口にした。細い目をさらに糸のように鋭く細めて彼は僕をにらんだ。

「花家がお前みたいな冴えないやつと一緒なんて、どう考えてもおかしいだろうが」

 僕はこのとき初めて、こいつは僕と小町が釣り合わないと心から断定しているのだということを実感した。

 落ち着け。

 僕は、自分に言い聞かせた。こいつは歪んだフィルターを通して僕と小町を見ている。真に受ける必要なんてない。

「お前がなんと言おうと、僕と小町の関係に変わりはない。わかったら、これ以上話しかけてこないでくれ」

「あいつはお前のことなんて好きでもなんでもねえぞ」

「どうしてそう言い切れる」

 こんな男の相手はせずに、今すぐここから立ち去るべきだ。頭ではそうわかっていた。けれど、実際にそうしてしまうと、この男にではなく、世界の理のような絶対的な存在に、僕と小町の関係性が否定されてしまう気がした。

「んなもん、お前と花家が二人でいるところを見てたらわかるぜ。お前ら、手ぇ繋いですらいねえだろ」

 たしかに男の言っていることは事実だ。けれど、それは僕たちの関係性を断定する根拠にはならない。理屈の上では理解しているはずなのに、僕の心は激しく動揺していた。

「お前になにがわかるんだ」

 腹の底から、どろりとした黒い感情がせり上がってくる。僕は強く歯噛みして男を睨んだ。

「本当は俺に言われるまでもなく気づいてんだろ? 花家と自分は釣り合わないって」

「黙れ」

「早く花家から離れてやれよ。あいつも内心迷惑してるぜ」

「黙れよ」

「まあ、お前にその気がなくても、そのうちあいつの方から勝手に離れるだろうけどな」

 その吐き捨てるような言葉を耳にした瞬間、自分の中で抑えこんでいるものが弾けたのを感じた。

 怒りの焦熱が理性を焼き切っていく。僕は明確な決意と敵意をもって彼への距離を詰めた。鈍い音がして、握り拳に固い感触が残った。どこかから悲鳴が上がった。人を殴るのは、生まれて初めてのことだった。

 男はたたらを踏み、廊下の壁に背を打ち付けた。僕はためらいなく男の胸倉を掴み、迷わずその顔面を二度、三度と殴りつけた。そうする度に怒りは治まるどころかさらに燃え上がっていった。男が床に倒れこんでも、馬乗りになって殴ることをやめなかった。積み重なった根拠のない戯言を身体の外へと絞り出すかのように、憎悪の衝動に駆られるまま、僕は男を殴り続けた。

「なにやってんだよ! 伊勢!」

 そんな僕を、誰かが止めた。後ろからその誰かに引き剥がされ、僕は廊下の床に尻餅をついた。目を上げると、酷く慌てた様子の折原がいた。彼の存在を認知した瞬間、僕の中で燃え上がっていた怒りの炎は簡単に消えてしまった。男の口と鼻からは血が流れていた。周囲には多くの生徒が集まっていた。頭上で折原がなにか言っていたけれど、僕の頭にはなにも入ってこなかった。

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