強さ


 中間テストが明けた十一月の最初の日曜日、僕は小町を誘った。そのとき、イレギュラーな事態が起こった。

 冬物の服を見るために様々なショップを歩き渡っていたその様子を、同じクラスの女子に目撃されてしまったのだ。

 僕と小町が一緒にいる所に立ち会った彼女は、なにか信じられないものを見たかのようにぽかんと口を開けていた。次の日には、僕と小町が一緒に歩いていたという噂は不特定多数のクラスメートが知るところとなっていた。

「花家さんと一緒に歩いてたって、本当?」

 昼休みになると、僕に真っ先にそう訊ねてきたのは小曽根夕菜だった。そして教室の雰囲気をうかがっていると、彼女は噂を知るものたちを代表して僕に質問をぶつけてきたのだということがわかった。ずいぶん答えにくい状況ではあったが、僕はその通りだと返事をした。

「伊勢って、あの人と付き合ってるの?」

 間髪入れずに訊ねてきたのは、小曽根夕菜と仲の良い高村という女子だった。僕の記憶がたしかならば、同じクラスになってからというもの、彼女がこうして僕に話しかけてくるのは初めてのことだった。

 ――あの人と付き合ってるの?

 ただの好奇心によって象られた質量のない言葉が、僕と小町の関係性を問い質す矢となって突き刺さる。

 どうしてそんなことを訊ねるんだ、と僕は高村さんを呪いたくなった。

 けれど、僕が彼女を非難する道理なんて存在するはずがない。他愛のない質問に、深刻な意味を付与したのは他でもない僕自身だからだ。

 僕はただ、目を背けている現実を突きつけられただけに過ぎない。

 答えは決まっている。にも関わらず、口が思うように動かない。

 今の君は、僕のことをどう思っている? どんな気持ちで、僕の誘いに応じている?

 本人に直接そう訊ねられたら、どれだけいいだろう。

「付き合ってるわけではないよ」

 やっとの思いで僕がそう答えると、高村さんは「なんだ」と興が削がれたような声を上げた。遠巻きにこちらを眺めているクラスメートも、落胆したような声を上げた。僕は居心地の悪さと、自分の中に渦巻く不穏な感情に我慢できなくなり、席を立って教室を出た。

 タイミングの悪いことに、小町も折原もこの日の昼休みはそれぞれの事情や予定があり、僕は一人ですごさなければならなかった。パンを購入した僕は、中庭の誰もいないベンチに腰を下ろした。一人で食事をとるのは、夏休み前以来のことだった。

 小町とデートをしていることが知られてしまった。その事実を思うと、僕はため息をつかずにはいられなかった。

 小町のクラスでも、噂は広がっているのだろうか? 僕は彼女に電話をかけようと思ったけれど、今の状況を電話でうまく伝えられる気がしなかった。しかし、放課後の約束だけでも取り付けておこうと思いメールを送った。それだけのことで、僕はなんだかとても疲れてしまった。

「こんなとこにいたんだ」

 携帯から顔を上げると、僕と同じようにパンの袋を持った小曽根夕菜がこちらに歩いてくる姿が見えた。他に連れはいないようだった。

「どうしたんだよ。いつも教室で食べてるだろ」

「ん、そうなんだけどね。さっきのこと、謝っときたくて」

「さっきのこと?」

 僕はわざと思い当たらないふりをした。そんなふうな態度をとってみても、心の中のささくれ立った部分がもとに戻ることはない。

「ほら、花家さんとのこと。ちょっと、さすがに無神経すぎたなって思ってさ」

 僕はなにも言わなかった。小曽根夕菜は言葉を続けるでもなく、持っていたパンの封を切り、口をつけ始めた。僕も彼女に倣ってパンを食べ始める。しばらくの間、なにを話すでもなくベンチに座りながら二人してパンを食していった。

「別に、僕はひた隠しにしようとは思っていなかったよ」

 先に食べ終えた僕が、妙な沈黙に耐えかねて口を開いてしまう。けれど、それは見え透いた強がりだった。

「そうなんだ」

「ただ、変に騒ぎ立てられるのが嫌なんだ。無責任にあれこれ詮索されたくない」

「どうして詮索されたくないの?」

「煩わしいから。他に理由なんてないよ」

「でもさ、伊勢君たちが休日にデートをするような関係だってことをみんなが知ったら、花家さんに言い寄ってくる男子もほとんどいなくなるんじゃないかな? それって伊勢君にとってもメリットになると思うんだけど」

「それはもちろんいないほうがいいけど、それでもとにかく周囲からあれこれ勝手に言われるのが嫌なんだよ」

「それ、すっごくジコチューなこと言ってるって気づいてる?」

 もちろん気づいていた。だから僕はなにも言い返せなかった。

 それでも僕は、穏やかな日々を望んでいた。今のこの、もどかしさと心地よさを内包した息苦しさに身を浸していたかった。きっと、それすらも小曽根夕菜に言わせれば『ジコチューなこと』なのだろう。

「僕にとって、小町は初めて心から好きになった相手なんだ」

 僕は、小町への思いをためらいなく口にした自分自身に驚いていた。けれど、小曽根夕菜はそんなことは知っていると言わんばかりに普段通りの表情を崩さなかった。

「伊勢君が花家さんのことをどう思っていようとあたしたちにはなんの関係もないし、その気持ちを知ったところでみんなが大人しくなるとは思えないね。だって、君が好きになったのはあの花家小町なんだよ?」

 あの花家小町。

 重苦しく、絶対的な事実の響きを、小曽根夕菜の言葉は纏っていた。

 それから彼女はこう続けた。

「あたしね、ここに入学して、最初に花家さんのことを見たとき、なんて言うかさ、すっごくショックだったんだよ。こんなにも綺麗な人がいるんだ、ってさ。あたし、自分のこと、ナルシストでもレズでもないって思ってたんだけどね、あんまり綺麗な花家さんのことを見ていたら、なんだかとっても悔しくなって、それから心臓がドキドキしたの。どっちも生まれて初めての経験で、なんて言えばいいのかな、自分の中がぐちゃぐちゃにされたような? 台風が通り過ぎていったみたいな? とにかくそれくらい、あたしにとって花家さんの存在は衝撃的だったんだよ」

 こいつ変なこと言ってるなって、聞き流してくれていいよ。そう付け足して、小曽根夕菜は軽薄な笑みを浮かべた。

「でさ、去年、あたしが君のこと殴りそうなったことがあったでしょ? あのとき、初めて花家さんが笑ってるとこ見た。それからかな、花家さんだけじゃなくて伊勢君たちのことも気になり始めたのは」

 小曽根夕菜にとって小町の印象が強烈に上書きされたというそのときのことは、僕く覚えていた。

「時間が経つにつれて、花家さんに対する自分の気持ちがゆっくり変わっていくのがわかるの。最初は恋愛感情みたいなのもあるのかな、って思ってたんだけど、違ったみたい。なんていうのかな、もっと根本的な、信頼っていうのかな」

「信頼?」

「うん。信頼。でも、これ以上はまだ、あたしもあんまりよくわからないんだよね。自分の気持ちなのにさ」

 だから、この話はもうおしまい、と小曽根夕菜は唐突に締めくくった。物語を語り手に途中で放り出されたような釈然としない気持ちがないわけではなかったけれど、彼女に話す気がないのなら、こちらから促すこともしようとは思わなかった。

「とにかく、僕たちのことはそっとしといてほしい」

 どこか投げやりな気持ちで、僕はそう言った。まだパンを残してはいたけれど、ベンチから立ち上がる。

「伊勢君」

 歩き出した僕の背に、小曽根夕菜の声が刺さる。

「あたしさ、これでも君のこと応援してるんだよ」

「……ありがとう」

「もし伊勢君と付き合っても、花家さんは花家さんのままでいられるのかな?」

 その質問の意図が僕にはわからなかった。けれど、軽々しく答えられないと思った。

「どうだろうね」

 小曽根夕菜が求める答えを、僕は導き出してやれない。そうやって曖昧な返事をしてその場を去りながら、僕は微妙な後味の悪さを覚えずにはいられなかった。

「びっくりしたわ。まさか見られていたなんてね」

 大して驚いた様子もなく小町はそう言った。彼女のクラスでも、僕たちが休日を一緒にすごしていたという情報は出回っているようだった。

 僕が不愉快な気分を押し殺しているのを察したのか、小町は珍しくフォローするような物言いをしてみせる。

「伊勢君は、人から注目されることに慣れていないものね」

「それは、まあそうだね」

「私はほら、見ての通り綺麗でしょう? だからね、注目されなかったことの方が少ないくらい落ち着かない人生を送っているの。注目されることに関しては、ちょっとしたプロフェッショナルみたいなものなのよ、私。これまでの経験から言わせてもらうと、今の私たちへの注目なんてとても些細で、取るに足らないものよ」

「だから、気にする必要はない?」

「私はそう捉えているわ。でも、伊勢君が周囲にあれこれ言われるのを煩わしく思うようなら、今後週末に会うのは控えるようにしましょうか?」

「そこまでする必要はないよ」

 僕は慌てて首を振る。

「だったら、今週の日曜日は映画を観に行きましょう。久しぶりに面白そうな新作が公開されるみたいなのよ」

 強いな、と僕は思う。これまでに何度となく同じような――あるいはもっと純度の濃い関心や悪意に晒されてきた彼女だからこそ、今回の件に関しても冷静な見解を述べられるのだ。

 小町は、強い。けれど、その強さに僕は疎外されているような気持ちになる。それはきっと、彼女の有する強さが、一人で生きてきたことによって培われたものだからだ。親しい友達も作らず、当然のように孤高を貫き生きてきた小町。今回の噂に関しても、小町はあくまでも個人的な厄介ごととして捉え、処理しようとしている。それが間違った姿勢というわけではない。むしろ、自身に寄せられる無責任な関心を柳に風と受け流せるのであれば、それ以上に理想的な対応もないだろう。

 わかっているのに、僕はどうしても寂しさを覚えてしまう。

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