八月三十六日のデート

 土曜日。予定時刻ぴったりに待ち合わせ場所へやって来た小町は、襟がついた半袖の黒いワンピースを着ていた。膨らみの抑えられた膝丈までのデザインで、右の肩にかけている小ぶりなショルダーバッグは白いレザーのものだった。

 彼女が歩くと、ワンピースに浅く入ったスリットから眩しいくらいに白い太ももの側面がちらりと覗いた。足元はヒールの高いミュールを履いているせいで、僕とほとんど背が並ぶ形となっている。

 僕の方はというと、黒色のポロシャツにリーバイスのワンウォッシュジーンズ、それにコンバースのジャックパーセルというシンプルな組み合わせを選んだ。腕時計は、最近買ったスカーゲンのものをつけた。シンプルだけれど、まず間違いはないだろうという組み合わせだ。

 映画の上映時間まではまだ余裕があるため、まずはランチにしようということで、僕たちはファミリーレストランに入ってパスタのセットを二つ注文した。

 ものを食べているときに喋ることははしたないという理由で、小町は普段から、食事中に一切口をきかない。それはデートである今も例外ではなく、僕たちは互いにパスタを黙々と食していった。

 食事をとる小町の所作はとても流麗で、洗練されている。フォークとスプーンを使って鮮やかにパスタを巻き上げる手つき。下りてきた髪の毛をさりげなく整える仕草。食事中の相手を見つめることが褒められた行為でないことはよくわかっているけれど、どうしても視線が惹きつけられてしまう。

 セットのデザートを食べ終えると、僕は気になっていたことを訊ねてみた。

「小町はこうやって、異性と二人で出かけたことはある?」

「ないわ。そういう誘いには絶対に応じないようにしてきたもの」

「面倒だったから?」

「それもあるけれど、一つ前例を作ってしまうと、のちのち断りづらくなるからよ」

「なるほど」

 こうして休日を一緒に過ごしてくれている彼女が、まさかそこまで鉄壁の守りを布いていたとは思わなかった。今の話を事前に聞いていたら、こうして彼女を誘えていたかどうかも怪しいものだ。

 ファミリーレストランを出ると、僕たちは映画館に向かった。今日は九月五日だけれど、実際のところは九月なんて始まっていなくて今は八月三十六日なのではないかと思いたくなるほどに、太陽の日差しは強いものだった。

 外を移動するとき、当然小町は日傘をさしている。日傘の下でクールな表情を崩さずに街を歩く小町は、多くの視線を集めていた。そのうちの四分の一ほどは、隣を歩く僕の方へとスライドされた。彼女がとても人目を惹く美貌の持ち主なのだということを、僕は改めて思い知る。

 僕たちはそれぞれアイスコーヒーを買って、シアターに入った。小町によって選ばれた、イタリアの港町を舞台にしたサスペンスものであるその作品は、封切りからしばらく経っているためか、僕たちの他に客はいなかった。二人きりで映画を鑑賞する、とシチュエーションだけ切り取ればとても理想的な気もするけれど、空席に囲まれながら隣り合って座ることに緊張と不自然さを覚え、結果的に居心地の悪さが勝ってしまうあたり、僕も損な性格をしていると思う。

 普段よりもずっと強く届く薄荷の香り。スクリーンを見つめる真剣な眼差し。花家小町という存在をより間近に感じることで、僕の関心もまた普段に増してそちらに向けられるのだった。

「面白くなかったわね」

 シアターから出た彼女が開口一番放ったのは、実に無慈悲な一言だった。

「僕は悪くないと思ったけど」

 たしかに派手な演出やストーリーにおける大きなどんでん返しはなかったけれど、サスペンスものということもあり緊迫感を持って観ることができたし、要所で映るイタリアの町並みは綺麗だった。僕がそう感想を述べると、小町はやれやれと言いたげにため息をつき、切れ長の目をより鋭くして僕を見据えた。

「その町並みの見せ方に丁寧さを感じられなかったのよ。せっかくあの素敵な港町を舞台にするのなら、もっと場面転換とカット割りの少ない撮り方でないと、どうしても忙しく映ってしまうじゃない。それができないのなら、ロケーションを売りにした作品とは到底呼べないんじゃない? そもそも、ストーリーだって一本調子で退屈だった。途中何度欠伸を我慢したか。がっかりだわ。もうこの監督の作品を観ることはないでしょうね」

 小町は一息に映画に対する不満を口にした。僕がなにか反論しようものなら、すべて正面から叩き潰されてしまう未来がありありと見えた。

「また今度、別の映画を観よう」

「望むところよ」

 僕としては、これからもこうして休日を二人で過ごしたいという意思を伝えると共に、次こそ双方ともに満足できる作品を引き当てられたらいいね、という意味を込めてそう言ったわけだけれど、小町は今度こそは論争も辞さぬと言わんばかりの殺伐とした雰囲気をまとわせて頷くのみだった。

 小町の英会話のレッスンが控えているということで、僕たちは夕方の四時という、あまりに健全すぎる時間帯に帰路についていた。小町と過ごす時間がもう少し続けばと思う気持ちはあるけれど、僕は緊張と昨夜から持ち越した眠気を抱えていたし、小町も日傘をさしていると言えど、八月となんら変わりないこの気候の中を長時間出歩くのは疲れるだろうから、英会話のレッスンがなくとも解散するには妥当な時間帯だったのかもしれない。


 それから、僕たちは不定期的に休日を共にすごすようになった。僕が誘い、小町はそれに応じた。服を見たり、あてもなく街をぶらついたり、落ち着いた雰囲気の喫茶店にふらりと入ったり、本屋で小説を薦めあったりして、僕たちはお互いの嗜好や価値観、そして私服姿を確認しあった。中間テストが間近に迫ると、僕はテスト勉強を一緒にしようと誘った。小春日和の日曜日に、図書館までの道のりを小町と並びながら、僕はこのまま足が棒になるまで歩いていたいと、そんなことを本気で考えていた。

 小町と一緒に過ごす時間が、これからも変わらず続けばいいと思う。手を繋いだり、腕を組んだりするような身体的な接触はなかったけれど、穏やかで、満たされたひとときだった。小町と会う時間を重ねる度に、僕は彼女のことが好きになっていった。

 けれど僕は、高まっていく小町への思いに比例するように、彼女が自分に対して向ける思いを気にするようになっていた。

 僕が休日を一緒に過ごそうと声をかければ、小町は了承してくれる。けれど、彼女の真意や本心が不透明な以上、現在のようなシチュエーションがいつまでも続く保証はどこにも存在しない。

 その事実が、時折僕を暗い気持ちにさせる。

 初めて小町の本音に触れたあの夜更けから、気がつけば二ヶ月が経とうとしている。

 今日まで、彼女の口から決定的な言葉は聞かれない。

 僕もまた、築かれた関係性が崩壊してしまうリスクに怯えて、小町への思いを自覚する前と同じような立ち回りを演じてしまっている。そして、よりタチの悪いことに、今の僕はその事実を自覚した上で、立ち回りを改められずにいるのだ。

 あの夏休みの夜更けに小町の部屋で聞いた言葉。少しずつ重ねてきた二人の時間。それらをたしかな事実として大切に抱き締めることで、僕はその暗い気持ちの中からどうにか浮上することができた。

 小町と一緒に過ごす時間は、僕の中で得難くも馴染んだ一つの日常として定着しつつある。それは素晴らしいことなのだと思う。幸せか? と訊かれれば僕は迷わず首肯する。けれど、その幸せが一定のサイズを保ったまま、ずっと同じ場所に停滞しているような感覚がある。

 この日常の先に、僕の望む未来は存在しないのではないかと恐れる気持ちがある。その一方で、今のこの、明確に定義できないような心地よい曖昧さを滲ませた関係性に、ずっと浸っていたいと願う気持ちもまた、たしかに存在しているのだった。

 僕は、一体なにを望んでいるのだろう? そのことが、自分でもわからなくなってくる。

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