苛むもの

 ベッドの上で、僕は目を瞑って横たわっていた。眠気を手繰り寄せるためではない。けれど、むしろこのまま眠ってしまえればどれだけいいだろう、と思う。

 目を開けると、明かりのついていない部屋を、わずかに開いたカーテンから漏れている橙色の日差しが滲ませている。右手を掲げてみると、手の甲のいくつかの擦り傷はまだしっかりと残っていた。

 その傷を目にする度に、僕は深い自己嫌悪に陥る。『許されない行為』に出てしまったからではない。その結果傷つけてしまった相手がどうなろうと、そんなのは知ったことではなかった。

 インターホンが鳴る。両親は共働きで、家には僕しかいなかった。ベッドから体を起こすことがひどく億劫だったけれど、僕は訪ねてきた人物と会わなければならない。

「ご両親は留守か」

 リビングのダイニングテーブルの前に案内された僕の担任教師は、部屋を何度か見渡してからそう言った。彼は五十代も半ばの世界史の教師だ。恰幅の良い体格をしていて、短く切りそろえられた髪には白いものが混じりはじめている。

「二人とも働いています」

「そうか」

 担任教師は、椅子に座りながら、腕にかけていた黒いコートの置き場所に悩んでいるように見えた。預かりましょうか、と一言声をかけようかと思ったけれど、けっきょく僕はなにも言わなかった。

「これ、反省文です」

 担任教師の向かい側に座った僕は、手にしていたクリアファイルをテーブルに置いた。

「おお、もう書いたのか。預かっておこう」

 ファイルを鞄の中にしまってから、一つ咳払いをして担任教師は僕の方を見た。

「伊勢は、停学処分というのは初めてだな」

「そうですね」

「学校にも行かず、家でじっとしているというのは落ち着かんだろう」

「よくわからないです」

「一日経って、少しは気持ちの整理もついたか?」

「……少しは」

「昨日は教えてくれなかったが――」

 担任教師の口が止まる。その先に続く言葉は容易に想像できた。

「どうしてあそこまで、イワイのことを殴る必要があった?」

 僕はなにも答えなかった。答えることができなかった。唇は重く閉ざされ、気道が分厚い膜によって塞がれたかのような息苦しさを覚える。それは昨日、生徒指導の教師による尋問めいたやり口によって経緯の説明を求められたときと、まったく同じ息苦しさだった。

「悪いのは僕です」

 担任教師は、しばらく僕の言葉を待っていたようだったが、やがて諦めたかのようにふう、と息を吐いた。

「そうやって口を閉ざして、説明することを放棄しているとな、社会に出てから随分と不利益を被ることになるんだぞ。世の中、何事によらず主張する人間が勝つんだからな」

「覚えておきます」

 僕の返事が投げやりなものに聞こえたのだろう。担任教師は鼻から呆れを含んだ息を漏らした。

「なあ伊勢、鬱陶しい教師の繰り言と思わずに、真摯に受け止めてくれよ。お前は他のやつと違って賢いんだ。だからこうして俺も口うるさくなってしまう」

「僕はそこまで成績良くありませんよ」

「勉強の話じゃないさ。……おい、これは教師としてではなく、あくまでも俺個人の言葉として聞いてくれよ?」

「はあ」

 と僕はよくわからないまま返事をした。

「高校生なんてな、九割は馬鹿なんだよ。どいつもこいつも自分だけは特別だと思ってる。だから、教師の話になんてまず耳を傾けんわな。例えば俺が教壇に立ってお前たちに向けてなにかを言ったとしても、これは俺以外、私以外の人間に向けて話してるんだ……と、ほとんどのやつがそう捉えるんだ。馬鹿ばっかりだよ」

 意味深な前置きをするだけあって、担任教師の言葉は僕にとって予想外のものだった。およそ教師らしからぬ言い様に、思わず口元が少しだけ緩んでしまう。

「僕もどちらかというと九割の方に属している気がします」

「まあ、今のは例え話だ。馬鹿の一例に過ぎん。俺が伊勢を一割の側だと判断したのはな、お前のその内省的な姿勢さ」

「随分と曖昧な判断基準じゃないですか」

 僕がそう指摘すると、彼は黄色い歯を見せて笑った。するとタバコのヤニの匂いがかすかにした。

「俺も長いこと教師やって、数えきれんくらいの生徒を見てきた。それなりに信憑性のある評価制度だと思ってくれていいぞ」

「そうですか」

 だんだん面倒くさくなってきたので、僕はそれ以上の追求を諦めた。

「とにかく、俺は俺なりに伊勢を信用しているってことだ。お前は賢い。馬鹿じゃない。だから、今回もお前なりの事情があったんだろう? 暴力は許されない行為だがな、俺はその許されない行為に至るまでの経緯をしっかりと見極めたいと思ってるんだ。事情によっては、暴力は暴力ではなく自分自身の心を守るための正当防衛に成り代わるかもしれない。今回の処分はもう覆らんが、もしかしたら俺は伊勢の味方でいてやれるかもしれない。その可能性を、俺は見過ごしたくないんだよ」

 今日まで、僕はこの担任教師と個人的な会話をほとんど交わしたことがなかった。正直なところ、彼がここまで生徒のことを見ている教師だとは思わなかった。僕は彼の心意気に少しだけ気持ちが解きほぐされたし、彼に対しての評価を改めようとも思った。けれど、僕は自分が抱えている事情だけは、どうしても話したくはなかった。担任教師が家をあとにするまで、ついに僕は彼の求める言葉を口にすることができなかった。

 昨日、僕は一方的な暴力行為を働いたことを理由に停学処分を下された。一学期に小町が下された謹慎処分よりもさらに重い懲戒だ。

『お前がしたことは、決して許されない行為だ』

 どれだけ経っても口を割らない僕に対して、吐き捨てるようにそう言ったのは、生徒指導の体育教師だった。

 小町に謹慎処分が下されたとき、僕ははっきりと暴力という行為を否定した。小町は採るべき手段を誤った、と心からそう思っていた。けれど実際には、僕の採った手段とそれに対して下された処分の方がより重いものだった。その事実だけで、僕は小町には顔向けできない気持ちだった。

 けれどそれは言ってしまえば僕自身の主張と行動の矛盾にすぎない。そうではなくて、僕はもっと根本的な部分で小町に対する罪悪感を抱いていた。だから、小町からの着信があっても、それに応じられないまま、放置してしまっていた。

 一人になってから、僕は暗い部屋に戻り、ベッドに横たわり、再び目を閉じた。そして、僕自身の内側に潜り込んだ。それは内観にも似たどこまでも個人的な行為だった。部屋を暗くして、目を閉じる。そうして僕は意識を没入させる。

 どうして、あの男の言うことを真に受けてしまったんだろう。

 僕はあの男の言葉に屈してしまった。その結果、否定しようとして暴力という手段を採った。否定を示そうとしたということはつまり、一瞬でも彼の主張を事実だと認めてしまうことに他ならないのだと、あのときの僕は気づかなかった。

 本当に、自分が救いようのない愚か者に思える。わずかに気持ちを上向かせた担任教師の言葉も、僕自身が抱える暗い闇に呑まれて消えてしまった。

 ――お前ら、全然釣り合ってねえぞ。

 ――花家がお前みたいな冴えないやつと一緒なんて、どう考えてもおかしいだろうが。

 ――あいつはお前のことなんて好きでもなんでもねえぞ。

 ――早く花家から離れてやれよ。

 男の言葉は、不快な腐臭となり、鋭利な刃物となり、薄気味悪い獣の咆哮となり、知らず知らずのうちに僕を苛んでいた。降りかかってくるそれらが実体のない幻だとどれだけ自分に言い聞かせても、僕は無意識のうちに振り払うことをやめられなかった。

 僕はあの男が憎かった。折原が止めていなかったら、きっと拳の骨がむき出しになるまで殴るのを止めなかっただろう。右の拳を衝き動かす憎しみの強さは計り知れなかった。あのとき、自分のうちから湧き出てくる憎悪に対して、僕はちっとも恐怖を覚えなかった。麻痺していたのだ。狂っていた、といってもいいかもしれない。

 けれど、僕が最終的に憎むべきは、他でもない僕自身だった。

 僕は、今でもまだ、小町の思いを信じきれずにいる。

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