独り
小町の謹慎期間中、彼女が裏拳を叩きこんだ上級生のことを教えてくれたのは、小曽根夕菜だった。
「なんかね、もともと差し歯だったらしいよ」
「差し歯?」
「うん。だから折れたっていうか、ただとれた感じ?」
その話を聞いて、僕はなんだか身体から力が抜けてしまった。もちろん、小町が暴力を振るったという事実に変わりはないが、事の重みのようなものが少しだけ軽くなったような気がした。
「空手部の先輩が言ってたよ、女の裏拳でそんな簡単に歯が折れるもんかって。まあそりゃそうだよね。花家さんだって、なにもメリケンサックはめてたわけじゃないんでしょ?」
「多分ね」
僕の曖昧な返事がおかしかったのか、小曽根夕菜はけらけらと笑った。
「で、その空手部の先輩が、花家さんに殴られた人と同じクラスなの。問い詰めたらあっさり白状したってさ」
折れたのは五年ほど前に差したレジンのもの。殴られたそのときは大して痛くもなければ血も出なかった。家に帰って飯を食ってたらポロリと外れた。騒ぎを大きくしたのは自分ではなく親。俺だってそんな、女の子に殴られたことは知られたくなかったんだぜ……と言い訳がましく弁解していたそうだ。
「なんか、悔しい、って顔してるね?」
小曽根夕菜は僕の顔を覗きこみながらそう言った。
「悔しいというか、呆れてるというか」
「そっか」
――あたしは悔しい。
小曽根夕菜が、下を向いたまま独り言のようにそう漏らしたのを、僕は聞き逃さなかった。彼女は僕の視線に気がつくと、困ったように唇を尖らせた。
「代わってあげられたらなって、思っちゃうね」
「どうして小曽根が小町の代わりになる必要があるんだよ」
「だって、先に裏拳使ったのはあたしだし」
「その理屈はよくわからない」
「じゃあ、あたしがその人をぶん殴ってやりたかった」
そのとき、僕はようやく気づいた。小曽根夕菜の小町に対する思いが、以前よりもずっとわかりやすくその瞳に灯っているということに。目の色だけではない。表情、そして声にもたしかな感情が乗せられていた。僕はこのとき、彼女は小町に対して並々ならぬ思いを抱いているのだという事実を、はっきりと認識した。
「小曽根がそこまでしなくていい」
彼女の放つ感情の熱気にあてられて、僕は突然不安な気持ちになった。それは根源の知れない、ひどく漠然とした不安だった。
「たしかに小町は一時的につきまとわれていたよ。だけど、まったく非がないわけじゃないんだ。相手がしつこかったら、教師に相談するなりなんなりすればよかった。でも、そうすることを怠って、暴力という手段に出た。差し歯だろうとなんだろうと、とれるものがとれたら親だってそりゃ怒るよ。相手の男はたしかにくだらない人間なのかもしれない。でも僕は、小町への謹慎処分が不当だとは思わない」
そう話しているうちに、僕の中の不安は混乱へとその姿を変えていた。
どうして僕は、小町のことをかばってくれている小曽根夕菜に対して苦言を呈するようなことをしているんだろう。僕はいったい、小町のことをどう思っているんだろう。小町にとってどうありたいんだろう。
上級生を殴り、その結果謹慎処分を下され、そんな処遇への不満を嘯いていた小町。彼女の後悔は、最終的に、僕たちに向けられた。その事実が、僕はとても嬉しかったのだ。だからこそ、一度完結した輪を乱そうとする小曽根夕菜が目障りに映るのかもしれない。その個人的な好意を、僕たちの間に差し挟まないでほしい、と。
けれどその一方で、僕は小町に対するフラットな感情を保とうとするあまり、自分の引いた平行線が歪んでいることに気がついていないのではないか、とも思った。
「だから、小曽根のその気持ちは、小町を幸せにはしない」
僕がそう断言すると、小曽根夕菜は大きな目をすっと細めて、僕に冷たい表情を向けた。
「伊勢君って、なんかキモいね」
彼女がはっきりとものを言うのは今に始まったことではないけれど、さすがに今の発言は聞き捨てならなかった。
「小曽根にそんなこと言われる筋合いはない」
「花家さんのこと、好きじゃないの?」
「これでも、僕なりに彼女の味方をしているんだよ」
「だからさあ、それがキモいって言ってんの」
徐々に小曽根夕菜の目が釣りあがっていく。表情の動きが、小町への思いを雄弁に物語っている気がした。しかし、僕と目を合わせているうちに、その眉尻は今にも泣き出してしまいそうに下がっていった。
「だって、可哀想じゃん、花家さん。好きでもない男につきまとわれて、それを追い払っただけだよ? 殴られるだけのことをしたのはあっちじゃん。なんなの、歯がとれたとか抜かしやがってさ……」
小曽根夕菜は、冗談でもなんでもなく本当に悔しそうだった。ストレートに小町を擁護できる彼女が心から羨ましいと思った。それは僕の果たせなかった役割だったからだ。事情もあやまちもすべて理解した上で、全面的に小町を肯定するということが、僕にはできなかった。そして、今の僕は――倫理的で常識的な立場を心がけようとしていた僕は――自分の正しさを、うまく信じることができなかった。
二週間という小町の謹慎期間が明ければ、また僕たちは以前までのように三人で集まることができる。
僕は、当然のようにそう考えていた。
けれど、処分が解かれる前日になって、僕と折原に宛てて彼女からこんなメールが送られてきた。
あなたたちに会って、自分が間違っていることに気づかされた。だからというわけではないけれど、この二週間、私なりに粛々と過ごしたわ。
それで、考えたんだけど、私たちは少なくとも一学期の間は一緒にいるべきではないと思うの。私が復学すれば、きっとしばらくは好奇の目で見られる。私はまったく気にならないけれど、去年に私の過去の噂が流れたときのように、二人をくだらない邪推に巻き込むのはぞっとしないから。幸いもうすぐ夏休みよね。一ヶ月以上も間が空けば、私が誰かを殴ったことなんて、ほとんどの人が忘れるはずよ。そうなったら、また一緒にお昼ご飯を食べたり、放課後に河原で話したりしましょう。
そんなわけだから、明日私の姿を見ても、話しかけてこないで。私もあなたたちには話しかけません。
簡潔なメッセージに込められた意志の強さが伝わってきて、僕はそのメールに返信することを諦めた。
翌朝、僕は小町を見かけた。夏服に衣替えをした彼女は、黒い日傘をさして登校していた。僕たちは同じタイミングで校門を潜ろうとしていて、お互いに目が合った。それは間違いのないことだった。僕は小町を捉えていて、小町もまた日傘の下で僕を捉えていた。実に二週間ぶりの再会だった。にも関わらず、彼女は一切の挨拶を寄越さなかった。顔色一つ変えず、視線を進行方向へと戻してしまう。それは予想していた反応ではあったけれど、僕は気持ちが沈んでしまう。
たまに校内で小町を見かけることがあっても、僕は声をかけられなかった。メールや電話のやりとりも自然と途絶え、まるで謹慎期間中に逆戻りしたかのような日々が続いた。折原は折原で自分のクラスの連中と過ごしているのだろうと考えると、やはりこちらから近づいてみようとは思わなかった。そして、彼らの方から僕に関わってくることもなかった。僕たちはそれぞれ、独立した個人として学校生活を送っていた。
小町はいつも一人だった。一人で登校し、一人で廊下を歩き、一人で自販機のコーヒーを買い、一人で下校していた。一人ですごしていても、小町は孤独の影をまとってはいなかった。いじらしさやひたむきさもなく、淡々と、当然のように一人ですごしていた。
もしも一年のときに、小町と同じクラスになっていなかったら、僕たちはきっと知り合うこともなかっただろう。そうしたら、僕はこうして美しい彼女の姿を時おり目で追いながら、なんの感慨もないまま学校生活を送っていたのかもしれない。
次の日から、学期末のテストが始まった。一人ではやることもなく、試験勉強に時間を割いていたおかげか、これまでに受けたどんなテストよりも手応えを感じていた。
小町と折原とは、今もまだ顔を合わせていないし、連絡もとっていない。その選択が功を奏したのか、ただテスト期間ということで噂そのものが下火になっているのか、とにかく僕の耳には、小町の話はほとんど入ってこなくなった。
だから、もう少しだ。一学期の間だけ僕たちは距離を置き、夏休みが終われば誰憚ることなく三人で集まればいい。僕はそう考えていた。そして二人も同じように考えているはずだと、僕は信じていた。
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