わがまま

 テスト期間最終日、携帯電話に着信があった。折原からの電話だった。

「よお、お疲れ」

 聞きなれたはずの彼の声も、今の僕の耳にはどこか新鮮に響いた。

「どうした?」

「伊勢、まだ学校いるか?」

「いるけど」

「じゃあ、久しぶりにマックでも行こうぜ」

 特に予定もなかったので、僕は誘いに乗ることにした。昇降口で待ち合わせて、テストの出来なんかを喋りながら、炎天下を進む。

 僕たちはそれぞれ同じバーガーのセットを頼んだ。テーブルにつくと、僕たちはまずドリンクに口をつけた。

「折原は、小町と連絡を取ったりしてるのか?」

 接触を断っている彼女について、最初に触れたのは僕だった。

「いや、とってない」

 お前の方はどうなんだ、と折原が視線で訴えてくる。僕は頭を振った。予想していたことだけれど、小町はやはり、この一週間をまったくの一人きりですごしていたようだ。

「やっぱり、二学期が始まるまで、小町とは関わらない方がいいのかな?」

 僕は再び折原に訊ねた。

「俺は、そうするのが得策だと思うけどな」

 その答えは、僕の望んだものとは違っていた。僕は、折原に期待していたのかもしれない。彼が今すぐ携帯を開いて小町に電話をかけ、一緒に昼飯でも食おうぜ、と朗らかに誘ってくれるのを。

 小町に会いたい。そう思った。けれど、折原は会うべきではないと言う。そうすることが正しいのだと、僕もわかっていた。けれど、会いたいという強い気持ちは抑え難く存在していた。僕は今、かつてないほどに小町に会いたかった。にも関わらず、僕は折原に判断を委ねてしまっている。

「なあ、伊勢」

「うん?」

「昨日、小町が差し歯を折った先輩に会ったぜ」

「本当に?」

「ああ。帰るときに呼び止められてさ。むこうは俺たちのこと、ちゃんと知ってたよ」

「それで、どんな話をしたんだ?」

「気になるか?」

 その勿体ぶった言い方に、僕は苛立ちを覚える。そして、そんな自分自身にとても驚いた。どうして僕が、折原に対して苛立つ必要があるんだろう。

「小町に謝っといてくれって言われたよ」

「そんなの、自分で直接謝ればいい」

 そう口にしながら、僕は喉の奥になにか苦いものを感じた。

「もう二度と近づくなって、小町に拒否られたんだとよ。それで律義に小町と仲のいい俺を通して謝ろうとしてんだから、なんか笑っちまってさ」

 話を聞いていても、僕はちっとも笑えなかった。それどころか、当初は折原に覚えたはずの苛立ちが、いつの間にか形を変えてその男に向けられていることに気づいた。

「とにかく、その人が小町に近づくことはもうないんだ。なら、この話はもう終わろう」

 そうやって、強引に折原の話を打ち切りながら、僕はテーブルに届けられたハンバーガーの包装に手をかけようとした。けれど、折原の口からは僕の望まぬ言葉が放たれる。

「あの人、俺たちが思ってたほど悪い人じゃなかったぜ。しつこく言い寄ったのはまずかったけど、要するに、それだけ本気で小町のことが好きだってことだもんな」

「そんなわけない」

「どうして言い切れるんだ?」

 即座に切り返されて、僕は言葉に詰まってしまう。そして、小町に殴られたというその男に対して僕が抱えている印象というのが、複数人の部外者を跨いで届けられた情報によって固められたものにすぎないという事実に気づいて、愕然とした。だとしたら僕は、かつて流布された小町の過去を疑うことなく信じた奴らと、なんら変わらないじゃないか。

「根拠もなく否定するなんて、お前らしくないぜ」

 その言葉に、僕はまた苛立ってしまう。けれど今度は、自分自身に対する苛立ちだった。その苛立ちが、篝火となって心の中を不鮮明に照らし出す。曖昧に見え隠れしているからこそ、僕はそこから目を背けることができない。

 不意に、舌打ちが聞こえた。店内の雑踏を打ち消すようなその不穏な音を発したのは、間違いなく目の前に座る僕の友人だった。彼は眉を険しく顰めて僕を睨んでいた。

「羨ましいんだろ? 小町のことを好きだってストレートに言える、あの先輩がよ」

 どこにも開かれることなく閉ざされていたその領域に、折原の言葉が切り込んでくる。その場所に眠る、僕自身ですらその全容を把握していない感情が今、白日の下に晒される。

「急にこんなこと言われてびっくりしたか? あのな、お前が小町を特別視してることくらい、もうずっと前から気づいてんだよ。でも、お前なりに思うところがあるのもわかってた。だからなにも言わないでいたんだ。お前のいつでも冷静なとこ、すげえと思うよ。でもな、今の冷静ぶってるお前は、見てて腹が立ってくるぜ」

 あくまでも低く抑えられた声音が、僕を揺さぶる。そうすることで、本心を無理やり引きずり出そうとするかのように。

 折原の瞳の中に映る僕自身を見つめる。求めていた真実は、そこには存在しない。

「伊勢」

 折原のその声から、先に続く言葉をイメージしてしまい、僕は反射的に俯いてしまった。

「なあ、伊勢」

 もう一度、今度は焦れったさと苛立ちを隠そうともせず、折原は僕の名前を呼んだ。それでも返事をしない僕を睨みながら、彼は二度目の舌打ちを漏らした。

「お前、小町のこと、好きなんだろ」

 その容赦なく核心を抉る言葉によって、現実から目を背け続けてきた僕の臆病な心は、いとも簡単にねじ伏せられてしまった。

「僕は……」

 非の打ち所のないほどに端麗な容姿。冷徹で迷いのない潔さ。そして、その裏に隠されている、普段は決して見せることのない微かな脆弱さ。花家小町という人間を知る度に、僕はその魅力に惹かれていった。けれど、思いがけず築かれたフレンドリーな関係性にヒビを入れたくはないという、徹底した僕の無意識が、思いに蓋をしてしまっていた。

 小高い丘に立って眼下の景色を見渡すように、僕はそんな自分の気持ちを一望することができた。目を閉じて、背を向けたままでいたから気づかなかっただけで、僕はずっと、その場所に立っていたのだ。

 心臓の鼓動がもたらす圧迫感から逃れるように、僕はそろそろと息を吐いた。折原はまだ僕を見ている。視線に宿る訴えが肌を刺した。

 無意識のうちに自分の思いから逃げてはいても、とうとう今日まで諦めることができなかった。覚悟を決めなければいけない。腹を括らなければいけない。

 ようやく、僕はその事実を受け入れた。

 なにかに突き動かされるように立ち上がる。折原の視線に、ようやく正面から向かい合えた。一つ頷いてみせると、折原もまた微かに頷いた。それを見届けて、僕は歩き出した。こんなときくらいは、激情のまま走り出したりしてもいいのにな、と思いながら、容赦なく降り注ぐ七月の日差しの下を黙々と進む。

 携帯を取り出し電話をかけてみる。やはり繋がらない。きっと小町は、まだ僕たちの呼びかけに応じるつもりはないのだろう。それは、自分の犯した過ちを清算するために――やがて再び三人ですごすために――彼女が定めた覚悟だから。今になってようやく、僕は素直な心でそう認めることができた。

 だけどさ、小町。今だけは僕のわがままを許してくれないかな。たぶん、こうやって君の意に染まない行動に出るのって、初めてのことだと思うからさ。

 僕は心の中で、一方的な謝罪と言い訳の言葉を並べる。そして、かつて一度だけ訪れた小町の住むアパートにたどり着いた。こめかみから顎へと伝う汗を拭いながら、二階の廊下へと続く階段を登っていく。

そして、一息整えてから、小町の部屋のインターホンを押した。間延びした単調な音が止んでも、僕はしばらく沈黙と向かい合ったが、中から反応が返ってくる気配はなかった。

 彼女はまだ帰宅していないのかもしれない。そんな可能性に思い至ると、一気に脱力感が体を支配する。

 小町。

 心の中で、名前を呼ぶ。僕は、彼女の美しい容姿を目の当たりにするより先に、その名前の綺麗な響きを好きになった。そんな事実を、長い間忘れていた気がする。いつしか彼女の名前はあたたかく染みわたり、僕はその名前を呼ぶことで、知らぬ間に少しずつ幸福な気持ちを覚えていた。

 これまでに三人で過ごしてきた時間を思う。何度も一緒に昼食を食べた。河川敷でとるに足らない話をした。特筆に値するエピソードはなくとも、僕たちは、高校生活という不安定なまま流れる時間の中を、身体を寄せ合うようにして今日まで乗り越えてきた。それらの思い出が、遠ざかろうとしている過去に思えてしまうのは、きっと、僕の中で小町の存在が一つの境界線を越えてしまったからだ。

 小町に会いたい。その澄んだ声で、僕の名前を呼んでほしい。

 自分でも驚くほど、僕は素直に小町を求めていた。心の奥に押し込められ、埃をかぶっていた本音は、とり出してみるととてもシンプルな形をしていた。

 一緒にいるだけで満たされると思っていた。横顔を眺めているだけで幸せだと思っていた。決めつけていたのだ。自分が一手も間違うことなく小町との日々をすごしてきたと。今以上に最善の選択肢など、存在していなかったと。

 抑え込んでいたんだな、僕は。

 初めて話したときからずっと、僕は小町に憧れていた。ありきたりで気恥ずかしい、単なる憧れは、彼女を知るたびにその性質を変えていった。そのことを、僕は認めたくなかった。認めるわけにはいかなかった。僕の望みは、築かれた関係性を守り通すこと。それを大義として――最も優先すべき未来として、自分に言い聞かせ続けてきた。無意識のうちに、マントラを唱えるように、何度も何度も。

 けれど、その執念こそが、逆説的に小町への思いを証明してしまっていた。

 小町が帰ってくるのを待った。やがて足が痺れてきて、その場に座り込んでしまう。コンクリートの固く冷たい感触が伝わってくる。情けない姿勢だとは思っても、今は立ち上がれそうにない。ずっとここに座りながら、小町のことを考えていたい。

 まったくどうかしている。彼女のことを思うあまり、僕はおかしなことになっているのかもしれない。

 そんな、自分自身の歪な変化に気付かされたときだった。

「そこに居座られると迷惑なのがわからない?」

 頭の上から降ってきた声に、僕は心臓が止まりそうになった。立ち上がって、後ろを振り返る。僕がもたれかかっていた箇所のちょうど真上、廊下に面した窓が僅かに開かれていて、そこから小町が白い顔を覗かせていた。


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