断片
「そんなに困ってたんならさ、俺たちに相談してくれてもよかったじゃないか」
情けない話だけれど、今の僕は、自分の言葉や信念に対して確固たる自負を抱けずにいた。だから、穏やかな口調を崩さない折原が、結果的に僕の後を継ぐ形で小町との会話を進めてくれることに、救われる思いだった。けれど、折原へと視線を移した小町は、拗ねたように微かに鼻を鳴らす。
「相談? そんなの、しようとも思わなかったわ」
「俺たちじゃ頼りなかったか?」
「そうじゃなくて、相談するだなんて選択肢そのものが、私の中にそもそも存在していなかったのよ」
まるで触れようとするものをすべて薙ぎ払うかのように冷たい言葉の中に、どうしようもなく捨て鉢な姿勢が見え隠れしている。折原も、初めて目にする剣呑な雰囲気の小町に気圧されたのかなにも言えずにいる。なんでもいいから、ささくれ立った小町をなだめるようなことを言わなければいけないと思った。
けれど、やがて小さく短いため息が聞こえた。小町のものだった。僕たちがまごついている間に、どのように思考が働いたのかはわからない。とにかく、それまで彼女の中で息づいていた鋭い攻撃性のようなものは、いつの間にか削ぎ落とされてしまっていた。それまでの不穏さが嘘であったかのように虚無的な視線を床に落としながら、小町は静かに口を開く。
「でも、そうね……最初からあなたたちに相談しておけば、少なくともこんな形にはならなかったのかもしれないわ」
――心配かけて、ごめんなさい。
その小町の弱々しい呟きは、決して僕の信念の正しさを証明するものではなかった。
少しだけ一人にさせて、と言って、小町はリビングから出て行ってしまった。残された僕と折原は、ほとんど同じタイミングで小町から差し出された麦茶の入ったグラスに口をつけた。
「伊勢の言ってたこと、間違ってないと思うぜ」
「そうかな」
「あんな正論かまされちゃ、ぐうの音も出ねえよ。だから小町だって、最終的にはああやって素直になれたんじゃね?」
「……そうかな」
折原にそうやって肯定されたことで、僕は少しだけ溜飲が下がったような気がした。
「前に伊勢が教えてくれたよな。小町はこれまで友達がいなかったって」
廊下につながるドアの方を確認しながら、折原は少しだけ声を潜めてそう言った。僕は無言で頷く。
「それって、俺たちが初めての友達ってことだよな」
「多分」
「だからだよな、小町の距離感が独特なのって。だってさ、友達とは言え、普通は男二人を一人暮らしの部屋に招いたりしないぜ」
「たしかにそうかもしれない」
「それに、さっきの小町の言い分だってさ、あれ、ただ単に友達への頼り方がわからねえってだけのことだよな?」
それが決して冷笑ではないことが一目でわかるほど爽やかに、折原は破顔した。
僕がその言葉に返事をするより早く、小町がリビングに戻ってきた。白く細い指をハンカチで拭いているところからすると、どうやら洗面所にいたらしい。
「なんだか、みっともないところを見せてしまったわね」
平坦な声で、小町はそう言った。そして僕たちが座るソファからクッションを一つとってフローリングに置き、その上に両膝を抱えるようにして座った。改めて向き合う桜色のワンピースを着た小町は、とても綺麗だった。
「あと、今さら言うのも変かもしれないけれど」
――来てくれて、ありがとう。
そう言って、彼女はようやく素直な笑みを見せた。
それから僕たちは、他愛のない話をした。僕のバイト先の喫茶店に現れたおかしな客の話や、折原とその恋人の惚気話や、小町がくだらないと断言したバラエティ番組の話。そうして僕たちは、少しずついつもの空気を取り戻していった。
「うちの親、三年前に離婚しているのよ」
小町がそう口にしたのは、本当に突然のことだった。それまでに交わされていた、その場の空気を循環させるような話題の延長線上に、彼女は小さな覚悟を固めたのかもしれない。僕も折原も、黙ったまま話の続きを待った。
「私の父は、銀行員なの。寡黙で、実直で、いつも冷静で。多分ほとんどの人が想像する理想的な銀行員をそのまま形にしたような人ね」
膝の上で組んだ指先に視線を落としながら、小町は一定のボリュームを保った声でゆっくりと話す。
「昔から、なにか良いことをするたびに、周囲からは『お父さんに似た良い子だ』って言われて育ってきたわ。そうするとね、父は黙って頭を下げるの。それだけよ。娘が褒められたりするのがなんともむず痒いって感じでね」
小町は、足元に置いていた自分のグラスを手にとった。けれど、中は空っぽだった。僕はなにも言わず、自分の持っていたグラスを差し出した。変な気負いもなく、自然とそうすることができた。小町は少し迷った末に、「ありがとう」とそれを受け取り、中の麦茶を一口含んだ。僕は話の続きに耳を傾けた。
「母は、父とは正反対。自己主張が強くて、とても華やかで、完璧主義で。輸入雑貨を扱ってる会社を経営しながらバイヤーもやってる、とにかくあっちこっち動き回らないと生きていけないような人。母は、いつも私のことを綺麗と言ってくれた。家にいないことが多かったけど、顔をあわせるたびに『小町は綺麗ね」と言ってくれたわ。私が自分の容姿に絶対的な自信を持つことができるのは、まず間違いなく母のおかげよ」
そして離婚が成立すると、小町は母親に引き取られた。彼女自身が、母親についていくことを選んだ。
「性格も趣味も嗜好も感性もライフスタイルもほとんど真逆な二人が、どうして結婚したのか、それは娘の私にもわからないわ。とにかく、物心ついたときから、なんとなく予感がしていたのよ。私たちはいずれ、離れ離れになってしまうってね。それは不幸で忌々しい未来というより、バラバラだったパズルのピースをあるべき場所に戻す正当な行為みたいな、そんな感じでイメージされていたの。母も、結婚している間、相当我慢していたんでしょうね。離婚届を提出したその日から、買い付けだとか言ってどこかに飛んでいったわ。それからずっと、母はこっちに帰ってきていないの」
「小町の母親は、今はどこにいるんだ?」
折原が口にしたのは、僕も気になっていたことだった。
「さあ。なにせ行動力の塊みたいな人だから、まったく予想できないわね。四月にはアントワープから葉書がきたわ。知ってる? 『フランダースの犬』の街」
もちろん僕も折原もその街のことは知らなかった。きっとヨーロッパのどこかなんだろうな、とそんなことを思った。
「離婚してから、母は一度も帰ってきてないの。さっき私、一人暮らしって答えたわよね? けど、実際は二人で住むつもりで借りているのよ、ここ」
今になって、僕はようやく小町が一人暮らしをしているのだという事実を噛み締める。そして、その事実の裏側に隠れている願いのようなものの存在を、微かに感じとってしまう。
「謹慎中は、家から一歩も出ないつもりなの?」
僕はそんなどうでもいいことを訊ねた。本当は、彼女の母親のことが気になっていたけれど、これ以上探ってしまうと、彼女の中にひっそりと存在している、触れてはいけないナイーブな部分に行きあたってしまうような気がしたのだ。
「ええ。食料品なんかは、困ったら近くに住んでる伯父が持ってきてくれるわ」
「そっか」
「優しい人よ。妹がまともに子育てなんてできるわけがないって思っているから、自分が姪を守らなくては、っていう使命感を抱いているみたいでね」
そう話すとき、小町は微かな笑みを浮かべていた。けれど、その様子を目の当たりにして、僕も折原もうまく笑うことができなかった。
「とにかく、謹慎中はどこにも行かないわ。私がそのあたりを歩いていたら、きっと教師だってすぐに気づくんじゃないかしら」
「小町は人目を引くからな」
と折原が笑った。すると、彼女は一瞬だけ真顔になり、それから唇の端を少しだけ持ち上げて、
「その通り」
と頷いた。
「私は、とても綺麗だから」
そうやって小町が笑うと、魅力的な表情の前に、すべてが霞んでしまう。
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