息苦しい隣人

 春が過ぎ、夏の頭がすぐそこに迫ろうとしているある日の授業中、僕はふと考えた。小町と出会って、気がつけば一年余りが経ったのだ、と。

 僕と折原と小町。学校での多くの時間を三人で過ごした。この一年余り、僕は小町のことをずっと見てきた。小町は変わらず美しいままだった。美しく、そして折原と僕の前でのみ笑顔を見せた。

 僕と折原と小町は、それぞれ手を繋いで、ささやかな輪を作っている。そして小町の笑顔は、その輪の内側にのみ向けられている。いつからか、僕はそんなイメージを抱くようになっていた。僕は、そのささやかな輪が形成する僕たちだけの日々を、穏やかに享受していたいと思っていた。

 けれど、その望みは呆気なく打ち砕かれることになる。

 きっかけは、小町が謹慎処分を下されたことだった。

 その事実を、僕は折原から聞かされた。一限目が終わった休み時間、折原が僕の教室に飛び込んできた。

「小町が、先輩のこと殴って、き、謹慎処分だってよ!」

 息も絶え絶えに伝わってきたその言葉の脈絡が、僕はまったく理解できなかった。小町が、先輩を、殴って、謹慎処分? 僕ははっきりと困惑していた。折原の言っていることはなにかの間違いどころか、なにもかもが間違っていると思った。

 けれど、結論から述べると、彼の言ったことはすべて事実だった。僕が電話をかけると、小町はあっさりと自分のしでかした行為を認めたのだった。

「そうね。折原君の言う通りよ。何度もしつこく言い寄ってくる人がいたから」

「だから殴った?」

「そう。裏拳でね」

 まったく悪びれる様子もなく、小町はそう言い切った。僕の脳裏に小曽根夕菜の顔が浮かぶ。堪えようとして、とうとう押し留められずに漏れ出てしまったため息は、間違いなくスピーカーを通して彼女にも伝わったことだろう。

「できることなら、一度話がしたいんだけど」

「構わないわ。ただ、今の私は勝手に出かけることも許されない身分なのよ」

 今から言う住所をメモして、と言って、小町は僕の返事も待たずに事務的に続けた。咄嗟にメモの準備ができなかったので、僕は彼女の口にした住所を記憶に刻みつけた。そして電話が切れてから急いでペンを取り、その短期記憶を書き出したのだった。

 翌日の放課後、僕と折原は何度か道に迷いながらも、住所の場所にたどり着いた。そこには白いタイル張りの外観が眩しい、二階建ての瀟洒なアパートが建っていた。住所の末尾に記された番号通りの部屋に、表札はついていない。しばらくその場に留まっていても、中からはなんの音も聞こえなかった。恐る恐るインターホンを押すと、スピーカー越しに「はい」と小町の声が聞こえた。

「えっと、折原だけど」

 折原が名乗ると通話が切れて、微かな足音ののちにドアが開いた。そこには、季節外れの桜の花びらを集めたような淡いピンク色のワンピースを着た小町が立っていた。

「入って」

 僕と折原が少し薄暗い玄関に入ると、小町はドアを閉めた。鼻を抜ける薄荷のクールな香りがあった。三和土には、茶色いローファーが一足並べられているのみだった。

「もしかして、小町って一人暮らしなのか?」

 折原がそう言った。彼がなにも言わなかったら、きっと僕が訊いていたと思う。

「ええ」

 なんでもないことのように肯定したが、小町が一人暮らしをしていただなんて、今このときまで僕たちは知らなかった。思えば、彼女が家庭の事情なんかを積極的に話したことは、これまでになかった気がする。

 僕たちはリビングのソファに案内された。黒色のソファは革張りのもので、家具にはあかるくない僕にも、それが高価な代物だということはわかった。

 さほど広くはないリビングには、ダイニングテーブルやテレビ台、CDやコンポの載ったラックが置かれていた。どれもシンプルながら良質そうなものばかりだった。室内は整然としていて、座っていてもなんだか落ち着かなかった。

「学校じゃ、小町の話題で持ちきりだ」

「そう?」

「中学んときのこともぶり返されてるぜ」

「そんなの、勝手に言わせておけばいいのよ」

 折原と小町のやりとりを横目に、僕はどんなことを口にするべきかを考えていた。

 ソファにはまだ一人分くらいのスペースがあったが、小町は僕たちから少し離れた場所に立ったまま、両手にグラスを持って僕達を見下ろした。

そして、うんざりとした口調で「相手の歯が折れたらしいわ」と言って、グラスを僕たちに手渡していった。中には麦茶が入っていた。

「たしかに変な手応えがあったのよ。でも、まさかあれくらいの衝撃で折れるなんて思わないじゃない。シンナーでもやってたんじゃないの? あの人」

 苛立たしげにそう言い捨て、小町は自分の麦茶を一気に飲み干した。

「どうして裏拳なんてかましたんだよ」

 そう訊ねたのも、やはり折原だった。ここに来てから僕は、一言も話せていない。

「しつこく纏わりついてくる相手を追い払うには、それが一番効果的なんでしょう?」

 小町は、呆れるほど涼しい顔でそう言い切る。

「全然へこんでないみたいで安心したぜ」

 と折原が言うと、彼女は射抜くように視線を尖らせて僕たちを見渡して、不服そうな顔をしてみせた。

「へこむ? それってまさか、私が罪悪感を覚えていたんじゃないかっていうこと? 冗談じゃないわよ。私は、ただ納得がいかないだけなの。どうして、何度もしつこく迫ってきた男をたった一度迎え撃っただけで、私の方が二週間も家に閉じこめられないといけないの?」

 たしかに小町は、怪我をさせた上級生に対して罪悪感はまったく抱いていない様子だった。そして、その代わりに苛立っていた。

 小町の行動規範というのはどちらかというと自己中心的なものだし、それは人によっては傲慢に映るかもしれない。けれど、彼女は理由や裏付けもなく他人をけなしたり、悪し様に罵るようなことは決してしなかった。だから僕は、「シンナーでもやってたんじゃないの」という発言に驚かされた。

 そして、今の彼女のその姿勢に、はっきりと疑問を覚えた。

「なんにせよ、相手の歯を折ってしまったことは事実だよ」

 ともすれば声が震えてしまいそうになるのを必死で抑えながら、僕は小町に向かってそう言った。苛立ちのせいでより一層険しくなった視線が、容赦なくこちらに向けられる。

「そうね。私が暴力を振るって、あの男の歯は折れた。だから向こうの親がカンカンになって学校に連絡を入れて、私は校長から謹慎処分を言い渡されたんじゃない」

 小町は一息にそう嘯いた。そのとき僕は、彼女が僕たちの知り得ないなにかを守り通そうとしているのではないかと感じた。けれど、それがなんなのかはわからなかった。一つだけたしかなことは、今の小町が抱えている苛立ちが不当なものだということだった。

「しつこく言い寄られたのはたしかに迷惑だったと思う。でも、だから殴ったっていうのは、明らかにやりすぎだ。今回ばかりは、小町の行為に正当性は感じられない」

 僕は小町からの反論も覚悟した。けれど、彼女は唇を閉ざして俯いている。

『もしも今後、君の行いが道理に反していると思ったら、そのときはちゃんと伝える』

 かつて、そう小町に宣言したことを思い出す。

 小町は僕たちにとっても大切な存在だ。できることなら庇ってやりたい。けれど、今回の小町の対応は、明らかに度がすぎていた。自己防衛だろうが苛立ちだろうが、相手の歯が折れようが折れまいが、そんな前後の話はどうだっていい。とにかく、今回のケースに関して言えば、小町が手を出す道理は存在しないのだ。

 小町のことを近しい存在だと思うからこそ、そのあたりの判断を決して誤りたくないという気持ちが僕にはあった。たとえ、彼女がすでに謹慎処分という形で裁かれていたとしても、安易に同調し、同情することだけはしたくなかった。

 これは、僕のエゴなのだろうか? 彼女の本音や秘めた感情を無視して、一般論的な道徳でパッケージされた理想を押し付けているだけにすぎないのだろうか? 沈黙の時間が続くほど、僕は自分が的外れなことを口にしてしまったのではないかと考えて、不安になってしまうのだった。

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