小曽根夕菜

 夏休みが終わり、二学期が始まった。文化祭や二度目の中間テストを乗り切り、一息をついた頃にはもう秋が深まり、冬の空気が薄っすらと漂うようになっていた。小町はスカートの下に黒いタイツを履き、制服の下に黒いセーターを着込み、首元に黒いマフラーを巻くようになった。そうしてシックな雰囲気を纏ったことにより、彼女はそれまでとはまた違った魅力を放っていた。

 十二月に入ると、僕は扁桃腺の腫れに悩まされるようになった。症状はなかなか軽快せず、思うように声を出せないストレスを感じながらすごしていたある日、僕が折原と小町と一緒に廊下を歩いていると、前にいたショートカットの女子がハンカチを落とした。僕はそれを拾い、落としたことを伝えようとしたけれど、例によって声が出なかった。だから、話しかける代わりに彼女の肩を叩いて手渡そうとした。

 それがいけなかった。

 僕が後ろから肩を叩いた瞬間、彼女の上半身が目にも止まらぬ速さで反転した。予想だにしない動きに僕は反射的に目を閉じ、身体を固くしてしまう。強張った皮膚に、風を感じた。恐る恐る瞼を開くと、目の前の女子から伸ばされた拳が僕の右頬の僅か数センチ手前で止まっていた。どう好意的に捉えても、それは裏拳を寸止めされている状態にしか見えなかった。あまりにも突然のことに、僕は身動きすらとれなかった。女子は、敵意をむき出しにした目つきで僕を睨んでいた。

「え……」

 そう呟いた女子は、けれどすぐに青ざめた表情になって、それから慌てた様子で拳を引っ込めた。

「え、え、え……」

 そして今度は動揺に染まった顔で僕と、僕の後ろにいるであろう折原と小町を見渡した。

「……落としたよ」

 僕は痛む喉を動かしてどうにかそれだけ伝え、ぎこちなくハンカチを差し出す。女子は、ハンカチと僕の顔、そして折原と小町にそれぞれ視線を移動させてから、

「ごめんなさい!」

 と叫んで深く頭を下げた。落としたハンカチを拾って、拳の寸止めを見舞われ、深々と謝罪される。一連の流れにおよそ関連性というものを見出せず、僕は高校生活で最大の混乱を覚えた。

 話を聞くと、どうやら彼女はここしばらく、一人の男子から一方的に好意を寄せられていたらしい。その気持ちに応えられないと伝えても、しつこく言い寄られていたのだという。

「だから、そいつが肩を叩いてきたんだって思って」

 と彼女は苦笑いを浮かべる。しつこく言い寄る男がいるというだけあり、頬を赤く染めた気恥ずかしさと申し訳なさが入り混じったその表情はたしかに愛らしいもので、僕も折原も視線を引きつけられる。小町だけが聡明な梟のように冷めた目をしていて、客観的に事態を観測しようと努めているようだった。

「でもどうして裏拳なんだよ?」

 と折原がずれたことを訊ねる。

「あたし空手部なんだ」

「だから裏拳?」

「つい出ちゃった」

 つい出ちゃった、で済む問題じゃないだろう、とその裏拳がもう少しで顔面を直撃するところだった僕は抗議したくなったけれど、どうやら現在進行形で気の毒な目に遭っているらしい彼女には、強く出ることができなかった。

「くだらない」

 僕の背後で、小町がそう呟くのが聞こえた。さぞうんざりした表情で僕たちのやり取りを眺めているのだろうな、と思いながら後ろを振り向いて、僕は面食らった。

 小町は、笑っていた。片手で口許を抑えながら、こらえようとした感情が溢れてしまったかのような、ごく自然な笑顔で。

「どうして、ハンカチを拾っただけで殴られそうになるのよ」

 僕の哀れな小市民的な嘆きも、小町が口にすればアイロニー混じりの喜劇へと変貌する。我ながら単純だと思うけれど、こうして思いがけず心から笑う彼女の姿を拝むことができただけで、この不運な巡り合わせも受け入れようと思えてしまうのだった。


 小町と出会ってから二度目の春が訪れた。二年に進級し、クラス替えが行われると、僕たち三人は見事に離れ離れになってしまった。

「いざあなたたちとクラスが離れると、やっぱり少しだけ寂しくなるわね」

例によって、とても寂しさを抱えているとは思えない淡白な口調で、小町はそう言った。

「まあいいじゃねえか。集まろうと思えば、こうしていつでも集まれるんだし」

 と折原は朗らかに言う。

「それもそうね」

 僕は彼女が淡白な相槌を打つその姿を目にして、うまく言葉にできないけれど、微笑ましさと物足りなさのような、どちらかと言えば相反する感情を同時に覚えたのだった。

 休み時間に小町のクラスを覗いてみると、彼女が誰かに話しかけられている光景をよく目にする。その男女比は半々といったところだったが、いずれにせよ小町が話しかけてくるクラスメートたちに関心を示している様子は見受けられなかった。

 小町がそのように日々を送っている一方で、僕と折原はそれぞれ新しいクラスで、それぞれの流儀で人間関係を構築していた。

 折原はもとより社交的なやつだ。用事があって折原の教室を訪れたとき、いつだって彼を中心に明るい輪ができていた。折原が笑顔でなにかを話す。すると彼を囲う男女が笑顔で相槌を打つ。小町のクラスで目にした光景とはまるで対照的だった。

 そして僕は、新しいクラスで思わぬ再会を果たした。相手は小曽根夕菜おぞねゆうなという女子。僕の右頬に裏拳を叩き込もうとした、あの空手部の子だった。

「あのときはほんとごめんねぇ」

 僕らがお互いを認めたとき、彼女は開口一番の謝罪の言葉と共に頭を下げた。

「今はもう、例の男には言い寄られてないの?」

「うん。あたしが見ず知らずの男子をぶちのめしそうになったって話をそいつが聞いたみたいでね。なにも言ってこなくなったんだ」

 思わぬ形で再会した僕たちは、それから少しずつ話すようになった。

 小曽根夕菜は快活な性格で、男女問わず友人が多かった。にも関わらず、彼女はどうしてか僕によく話しかけてきた。たしかに僕たちは席が隣同士ということもあり、話しやすい環境は整っていたけれど、それにしても彼女が話しかけてくる頻度は高かった。

「僕と話していて楽しい?」

 あるとき、僕はそう訊ねてみた。すると、小曽根夕菜は視線を上に向けながら「んー」と唇を尖らせた。それが口にする言葉を探すときの彼女の癖だった。

「楽しいか楽しくないかで言うと、別に楽しくはないかも」

「なんだよそれ」

「でもね、伊勢君と話をすることにはちゃんと意義があるんだよ」

「意義、ね」

「そう。伊勢君には、一見して判別できない魅力があるんじゃないかって思ってて」

 その言葉の真意を計りかねて黙っていると、小曽根夕菜は意外な名前を挙げた。

「花家さんと折原君」

「小町と折原?」

「伊勢君、いつもこの二人と一緒に行動しているでしょ」

「まあ、そうだね」

「花家さんはとびきりの美人だし、折原君は爽やかなイケメンじゃん? すごいよね。この二人が並んでるだけで、どんな場所でも空気が華やかになるもん」

 そこまで口にして、小曽根夕菜は僕の目を見た。そのとき、僕はなんとなく次に言われる言葉を察した。

「そんな華やかな二人と僕は、見た目の面では釣り合わないって、小曽根はそう言いたいんだね?」

「そうだね」

 これまでに話してきた中でも薄々感じていたことだけれど、小曽根夕菜はずいぶんとはっきりものを言う性格をしている。そしてそれは、小町の有する潔さとは成り立ちを異にしている気がした。とにかく、ここまであけすけに自分の容姿を批評されても、このとき僕は特に不快感を覚えなかった。彼女に言われるまでもなく、小町や折原のような存在と比較すると自分が垢抜けていないということは、他でもない僕自身が一番理解していたからだ。

「それで、僕には一見して判別できない魅力があると思ったわけだ。見た目においては格上である小町や折原を引きつけるような、そんなものが隠れているんじゃないかって」

「そゆこと」

 と言って小曽根夕菜は目を細めた。さっきから平凡だなんだと散々な言われようだというのに、どうも彼女のことは憎めなかった。

 小曽根夕菜はさらに続ける。

「見た目って、それだけでステータスにつながるんだよね。特に女子の世界ではさ。だからみんな、自分より格上の花家さんと仲良くなりたいって考えるの。花家さんと一緒にいると、自分の格も上がるように感じられるからね。それくらいの美人なんだよ、あの人は。でも、まず誰も相手にされないみたい。そうしたら今度は、協調性という要素を持ち出して、花家さんを格下に叩き落とそうとする。それで安心するの。自分たちは花家小町より格上だ、だから私たちは格下を相手にしないってね」

 本来であれば、僕は怒るべきだったのかもしれない。勝手な持論を並べて小町を語らないでくれ、と。けれど僕はなにも言わなかった。

 おそらく小曽根夕菜は、小町に対して強い関心を抱いている。それが純粋な好意なのか、憧憬の念なのか、あるいは恋愛感情に近いそれなのか、そこまではわからない。はっきりと言えるのは、小町の話をしているとき、小曽根夕菜のその目はかすかに熱を帯びているということだった。

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