第3話「退職代行者」前編


 アキラは「常世」の扉を開いた瞬間、冷たく鋭い風が彼の頬を切りつけた。異世界「現世」の空気は、かつての穏やかさとは一変し、陰鬱で重苦しい雰囲気に包まれていた。彼が踏み出したその先には、かつて知っていた世界とは異なる、どこか異質な空間が広がっていた。


「光焔界」で得た力が彼の体内で渦巻くたびに、嗟嘆の憂鬱、永劫獣の孤独、虚空竜の絶望が、アキラの心に重くのしかかる。それらは、まるで自らの記憶のようにリアルで、彼の意識を侵食し始めるたび、彼は強い恐怖を覚えた。


「俺は……俺のままでいられるのか?」


 アキラの心には、自らの存在がこの世界に飲み込まれ、消え失せてしまうのではないかという恐怖が押し寄せていた。嗟嘆の記憶によれば、この世界に存在する勇者たちは、かつて世界を救った英雄たちだった。しかし、彼らは力に溺れ、今では腐敗しきった存在へと変わり果ててしまった。


 アキラもまた、嗟嘆や永劫獣、虚空竜の記憶に飲み込まれれば、彼らと同じ運命を辿ることになるだろう。それを避ける唯一の方法は、冷酷であること。感情を捨て去り、冷徹に物事を処理することで、彼は自己を保とうとした。そうしなければ、彼の存在は曖昧になり、数千年におよぶ記憶の渦に巻き込まれてしまうのだ。


「やるしかない……これが俺の役割だ」


 彼が足を踏み入れた城下町は、かつての栄華を失い、廃墟と化していた。崩れ落ちた建物の残骸が無造作に積み重なり、その陰で怯える住民たちの姿が見えた。彼らの目には深い絶望が宿っていたが、アキラはその光景に一瞬立ち止まり、次の瞬間には前に進む決意を固めた。


「この世界が、こんなにも変わり果てるなんて……」


 遠くから住民たちの悲鳴が聞こえた。アキラは反射的にその方向に向かって駆け出した。次第に怒号と嘲笑が混じり合った音が耳に届き、アキラの胸に怒りがこみ上げてきた。それは、自分の存在が消え失せないように必死に冷酷さを保つことで、自身を保とうとする決意の表れだった。


 彼の目の前に広がる光景は、勇者の一人である木城が、配下を従えて無法な行為を繰り返しているものだった。彼は店から商品を強奪し、抵抗する店主を嘲笑しながら蹴り倒していた。住民たちはその光景に恐怖し、道の端に逃げ込んで震えていた。


「この男か……」


 アキラは冷ややかな視線で木城を見据えた。木城は現実世界での屈辱と無力感から逃れるために異世界で得た力に溺れ、その権力に酔いしれていた。


 木城がアキラに気づいた瞬間、軽蔑と冷笑が彼の顔に浮かんだ。彼の目には、自分が絶対的な存在であるという確信が映し出されていた。


「俺が誰だか分かってその態度か?」


 木城の言葉には傲慢さがにじみ出ていたが、アキラは一瞬たりとも動じなかった。むしろ、その言葉を冷静に受け止め、木城の姿を見据えた。その瞬間、彼の心の中で嗟嘆の声が囁く。「お前は本当にこれでいいのか?」その問いを無視し、彼は冷徹な判断を下す。


「知っている。だがそれは関係ない」


 木城の顔には、次第に困惑が浮かび始めた。アキラの冷たい視線に、彼は何かを感じ取り、内心の不安が顔に表れた。しかし、彼はそれを隠すために言葉を続けた。


「俺は勇者、木城だ。お前は何者だ?」


「退職代行者だ」


 その言葉が放たれた瞬間、木城の顔色が一変した。アキラの冷酷な表情と、その言葉の意味が彼を震え上がらせた。


「お前の自信がどれほどのものか、確かめさせてもらう」


 木城の言葉が終わるや否や、突然景色が灰色に染まり、時間が止まったかのように静寂が訪れた。アキラは状況を理解しようと周囲を見渡した。すると、不意に不気味な声が耳に届いた。


「やあやあやあ、アキラくん。久しぶりだね。元気にしてた?」


 アキラはその声の主に振り向き、目の前に不気味な影が立っているのを目にした。


「なんだこれは……?」


「時間がないから手短に言うよ。『退職フィールド』と唱えれば、あとは君ならわかるさ。それじゃ、またね」


 そう言い残してその存在は忽然と姿を消した。時間が再び動き出し、景色に色が戻った。


 アキラは少しの迷いもなく「退職フィールド」と唱えた。瞬時に黒い半球状のフィールドが展開され、木城の体から異様な光が放たれ始めた。木城は自分の体から分離する光に恐怖の表情を浮かべたが、その場から動くことができない。体は麻痺し、何もできずにその状況を見つめるしかなかった。


 フィールドの中で現れたのは、木城の「勇者」という職業の擬人化された分身体だった。半透明の姿を持つその存在は、自らの意思を持ち、アキラを敵と見なして全力で襲いかかってきた。


「引退の時だ」


 アキラは冷ややかな声でそう言い放ち、手を軽く振るった。次の瞬間、空気が揺らめき、彼の手元に無音で拳銃が現れた。まるで長年手慣れた道具のように自然に召喚されたその拳銃を、アキラは即座に構えた。


 木城の分身体が猛然と襲いかかる。しかし、アキラはその動きを一瞬で見極め、体を鋭く回転させることで攻撃を回避。まるで計算されたかのような正確な動作で、次の瞬間には分身体の背後に回り込んでいた。


「無駄だ」


 冷徹な声が響き、アキラは即座に拳銃を正確に分身体の核へと向けた。その動きは迷いなく、まるで時計の針が進むかのように無駄のない流麗さがあった。引き金が引かれ、銃口から放たれた弾丸は、狙いを外すことなく光る核に命中した。


 核が撃ち抜かれた瞬間、木城の分身体は霧散し、光と共に音もなく消え去った。アキラは銃を一瞬手元で回転させ、そのまま空間に消し去ると、周囲を冷静に見渡した。


 彼の表情には一切の動揺がなく、ただ次の戦いに備えるための冷徹な計算が垣間見える。その姿は、どのような状況下においても対応し退職させる『退職代行者』だった。


 フィールドが解除されると、アキラは冷徹な眼差しで木城に歩み寄った。彼のステータスを確認させ、「勇者」の肩書きを失った木城は絶望に震えた。


「返せ! 俺の力を……!」


 木城は絶望と恐怖に駆られ叫ぶが、アキラは額に銃口を向け、引き金に指を添えて、冷たく言い放った。


「退職させた。新しい道を探すんだな」


 アキラの冷酷な言葉に、木城はその場から逃げ出し、かつての自信は完全に打ち砕かれた。町の人々は声も出せず、ただアキラの姿を見送るしかなかった。


 アキラは無言で次のターゲットへと歩き始めた。心に残る迷いを振り払うように、彼の一歩一歩は揺るぎない決意に満ちていた。

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