第10話(正平視点)
全国陸上記録会。茨城県大会実施競技場。昨年も、一昨年も訪れた場所だ。けれど今までとは違う――正平はそう思った。なんとなく身体が軽い。硬さが抜けている。緊張をしていないわけではない。ただ、その緊張を楽しめている自分がいる。その心のダイナミズムが身体にエネルギーを与えている。自信があるのか? それはわからない。でも、イメージは沸いている。たぶん、この大会も、通過できる――そんなイメージが。ほとんど確信と言ってもいいかもしれない。そしてこの確信こそ、自信と呼ばれるモノなのかもしれない。
「敗北って言葉、あるじゃん?」大会直前の選手を前にするコーチとは思えない、経歴不詳の窓際係長みたいなのんびりとした声で東海林が言った。
「はい?」
「なんで、北なんだろうね。敗東とか、敗西じゃ駄目なんだろうか。敗けたら北に向かう風習でもあったのかな」
「さぁ、敗けると心が寒々しくなるからじゃないですか」
「ま、何でもいいんだけど」と東海林は言った。オマエが訊いてきたんだろうが、と言ってやりたいのを正平は堪える。「でも、俺たちは勝てば勝つほど南に向かうよね、勝南だよ、勝南」
正平は呆れて、かぶりを振る。
『勝南』などとふざけ散らかしたことを試合直前にほざく東海林であるが、コーチとしては一流である――選手としても一流であったからコーチとしても、と言うべきかもしれない――と認めざるを得ない。
県北予選、正平は昨年同様、通過を決めた。しかし、昨年と丸っきり同じというわけではなかった。まずだいいちに彼は首位で通過を決めたのだ。県大会も同様であるが、県北予選では三本のレースを走る。その一本目の予選レース、正平は六十メートルを走り抜けたあたりで力を抜いた。別に、勝利を確信したわけではない。彼はレース中に周りを見る余裕は見せない。モチロン身体のどこかに痛みが走ったわけでもない。ただ、おかしい、と正平は思った。気持ちわるい、と思った。恐怖、と言っても大袈裟ではなかったかもしれない。身体を制御することができなかった。脚が、動きすぎるのだ。それに、ひと蹴りの幅だって大きすぎる。想像していた速度とのギャップに頭がついていかず、脚の回転を緩めてしまった。しかし、それでも。百メートルを走り切った時、ちいさなざわめきが起こった。正平は自己ベストを叩き出していた。
その後のレースでも、決勝のレースでも、正平は自己ベストを少しずつであるが更新していた。いずれのレースもゴール前で減速こそしなかったものの、全力でというよりは丁寧に走ることを心がけた。モチロン一秒や二秒、縮まったわけではない。それでも「ただ学年がひとつあがったからこのくらいタイムが伸びていて当然だよね」と言ってしまえるようなそれではなかった。才能の開花、とまではいかないが、確実に正平は大きな成長を遂げていた。
東海林曰く、「体幹を鍛えるのにはふたつのメリットがある。ひとつはモチロン身体のブレをなくして蹴る力すべてを地面に伝えるため。そしてもうひとつは全身の連動性を向上させるため。下腹部の筋肉は前に出した脚を後ろに引っ張るのに役立つし、腕や肩の筋肉をつけて腕を振る力をあげれば前への推進力がアップする。厭々でもしっかりトレーニングをこなしたことで、身体に基礎ができあがったんだ。この記録は、佐藤君の努力の成果だよ」
県北予選のタイムは残念ながら昨年の颯太の県大会優勝タイムには及んでいなかった。しかし、肉迫はしていた。もっと言えば、昨年に同じ走りをできていれば、関東大会への出場権を勝ち獲れていたはずだ。それに県北予選を終えてから今まで、全力で走り切る練習を重ねてきた。数日前より少し、けれどたしかに成長している。だから、今日もいける。きっと。
「コーチ、あの」
「うん?」
「どうしてコーチは僕にフォームの矯正をしなかったんですか?」
「どうして? して欲しかった?」
「いや、そうじゃないんですけど」と正平は口ごもる。「ただ、気になって」
「ふぅん」東海林は楽しそうに肯く。「俺は、君を舐めてはいないからかな」
「舐める?」正平は目を丸くする。舐める? 何の話だろう。
「大人はどこかで『自分にできないことは、子どもにもできない』って思いこむんだ。別々の生きモノなのに、持っているポテンシャルはその子どもの方が高いかもしれないのに。どこかで自分の教え子のことを自分の劣等種だと思っている。それがつまり、舐めてるってこと」
なるほど、正平は肯く。
「佐藤君が望むことが、君にとっては正しいんだ。他人が押しつけた理屈より、君が決めた心の方が強いんだ。壁なんてね、ちゃんと前見てないからぶっつかるだけでさ。君の心が向いた方向こそが前なのに、他人が用意した道を進まされて、望んだ道の方に気を取られるから転んでしまうんだ。そうなったらより大きな怪我を負うかもしれないし、言いわけだってしたくなる。その分岐にいつも心を馳せることになる。それに望まない道の方に、より大きな壁がないとは限らないだろ。だから俺たち大人が本当にやるべきことは、君たちが進みたい道を決めた時に、そっと背中を押して、その先にある壁の越え方を教えてやることくらいなんだ。あるいは越え方を教えてあげられなくても、いっしょに答を探して悩むことが指導者としての使命なんだ。佐藤君が伸びたのはね、君自身が望む道をまっすぐ見据えられたからなんだよ」
「なるほど……」
たしかに、と正平は思う。もう迷ってはいない。いつの間に、あの補助輪はどこかに消えてしまっていた。県北大会の後で担任に「陸上で大学に行きたい」と伝えると、意外にも、担任は件の細い目をいっぱいに見開いて「そうかそうか」と喜んでいた。「ずっと気になっていたんだよ、ほら、四月にわざわざ電話しておかあさんに訊いちゃっただろ」とも言っていた。そう言えば、どうやら母が嘘を吐いていたわけではなかったようだ。
「お、来たよ」
東海林が示した方向を見ると、颯太がいた。昨年の県大会覇者。変わらず、クールな表情をしている。
「どう見える?」東海林が空に風船を放るような声で正平に問う。
「どう?」正平は一旦東海林に向けていた視線を、颯太に戻す。
あっ――
「緊張……してる?」
昨年と同様、颯太の顔は冷静だ。しかしそれは余裕のある涼やかさではなく、寧ろ冷たく硬い。どことなく肩に力が入り、動きがぎこちなく見える。ラストイヤー故の気負いか、あるいは前回大会覇者としてのプレッシャーがあるのかもしれない。ひょっとすると正平が気づかなかった――と言うより気がつく余裕がなかった――だけで昨年も同じ重圧を抱えていたのかもしれない。
「颯太君だってね、緊張している、君と同じなんだよ。同じ競技をしている同い歳の少年なんだから。案外、抱えている悩みや、家庭でする会話の内容なんかも似たようなモノかもしれない。あとは自分を信じる力の差が勝敗を分けるんだ」東海林はそう言って正平の肩に手を置いた。「さぁ、もうひとつ勝って、さらに南に行くぞ」
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