第8話(正平視点)

「家に帰ってからも、もしかして練習してる?」


本日の練習メニューを終えて、ラスト一本、百メートルを走ったタイムを計測した後で東海林が言った。高校生活最後の大会、その県北予選まで既に二週間を切っている。その時期のタイムとしては芳しい記録ではなかったのだろう。詰問する、とまではいかないが訝しく思っているのが珍しく顔に出ていた。


「近頃、顔色も良くない気がするな。寝られているのかい?」

「えぇ、大丈夫です、寝てますから」と正平は言った。


モチロン、嘘だ。ここ数日、ベッドに入ってから夜が明けるまで、一度も目覚めずに熟睡できたことがない。なんだか最近、厭な夢をよく見るのだ。よく見る、と言っても、その内容を細かく記憶しているわけでなく、ただ「厭な夢だった」という不快感が潰されて干からびた雨蛙のように胸にこびりついているのだ。かろうじて覚えているのはほんの細部で、たとえば金属バットを持って追いかけてくる同級生や、信号待ちに突っこんでくるシルバーのSUV、救済された魂のように銃口から立ち昇る黒い煙など、そういうモノたちだ。たった一部分を切り取ってみたところで幸福な夢でないことはなんとなく察しがつく。それが、ここのところ毎日続いていた。


しかしそれを正平は東海林に話すつもりはなかった。心理カウンセラーの真似事はもうウンザリだったし、一刻も早く帰ってもっと練習がしたかったからだ。


東海林はそれを察したように「帰ってからどれだけの練習をしているのか知らないけどね、明らかにオーバーワークだよ」と言った。「それにね、大丈夫とは言うけど、それならその目の下にあるくまはどうしたんだい? 焦るのもわかるけどやりすぎは却ってよくないし、きちんと休める時に休まないと県大会の前に体調を崩してしまうよ。食事と睡眠をしっかり摂って、身体と心を回復させることもアスリートの大切な仕事なんだ」

「……わかってますよ」

「いいや、君はわかってないね、本当に――」


「わかってますってば!」思わず、大きな声が出た。その声に、正平自身が驚く。人に向かって声を荒らげるなんて、いつ以来だろう? その驚きで何かの箍が外れたのか、言葉が堰を切ったように溢れ出してきた。「コーチの方こそ、わかっていないんです。自分ではなんと言ったって、僕から見ればコーチは立派な天才で、天才であるコーチには平々凡々たる僕の気持ちなんか、これっぽっちだってわかるわけがないんです。焦りとか、渇望みたいなモノを少しでもわかってくれているのなら、こんな呑気で悠長な練習をいまさらできるはずがないんですよ」


この一ヶ月半ばかり、正平は部活動中、ベストな状態での百メートル走のタイムを計っていない。それどころか、ほとんど走ることすらしていないのだ。件のメンタル云々と言われることはほとんどなくなったが、東海林から課せられるのは九種類の筋力トレーニングで、そのうちの六種類は身体を動かす時間よりも寧ろ動かないでいる時間の方が長い。それが厭ならメンタル・トレーニングでもやるか、と言われているから仕方なく指定されたトレーニングをやっているが、オフの時期ならまだしも大会直前にするメニューではないだろう、と正平は思ってしまう。モチロン、体幹や筋肉を鍛える練習が無意味だと言っているわけではない。しかし言わずもがな、百メートル走というのは速く走る競技である。そこには何より瞬発力が要求される。初速からトップスピードに持っていくまでの身体運びや蹴り足の回転数をあげるための全身連動を我が身に染みこませ、細かい調整をしながらそれを高めていかなくてはならない。それにはやはり、走る回数を積むしかあるまい、亀やら蝸牛やらのような緩慢な動きをする筋力トレーニングで身につくモノではないのだ、と正平は思っている。日々ほとんど動かない、そのくせかなりの体力を奪われるトレーニングをした後で一日一本百メートルを走るタイムを計るだけではやはり、自分の今の実力が見えず、となれば見えないなりにできる限りのことは後悔しないようにやっておきたいと思い、正平は毎夜、錆びたブランコと暗闇しか先客のいない公園に繰り出しているのだった。


正平の言葉の後、栞を挟むような沈黙がふたりの間に腰を下ろした。それを指先でそっと取り除くような声で、東海林が口を開く。


「佐藤君は、いったい何を畏れているんだろう?」


正平は何も返さない。いや、返す言葉が見あたらない。静寂の薄暮時。七月の日はいよいよ長い。


「失敗や挫折だろうか。それとも、それらが原因で夢が叶わないことだろうか」


そんなの、と正平は思う。そんなの、ぜんぶこわいに決まっているじゃないか。


正平の心の声が聞こえたわけでもないだろうが、東海林は一度、黙して肯いた。


「ひとつ、教えておきたいことがある」

正平は眉根を寄せ、しかし、はいと肯く。

「人生において、挫折や失敗をひとつもしないことは、夢を叶えることより遥かに難しいことだよ」


正平は少し考えて、「そうでしょうか?」と言った。「挑戦することや希望を抱くことをしなければ、挫折も失敗もしませんよね」

「君は神さまみたいなことを言うね」と東海林は言った。「それは何もかもが思い通りにいってしまう存在が口にする言葉だよ。何と戦っても敗北することのない存在だけが口にできる言葉。あるいは、何かに挑む必要のない存在の言葉。そんな絶対的な存在に人間はなれない。逆に何もかもを諦められるような存在にもね。たとえなり得るとして、佐藤君はそんな存在になりたいか?」


「いや」と正平。


「何もかもを諦められる人間がいるとして、その人だってきっと何か、大きな挫折を味わったはずなんだ。何もかもを諦めるに至った挑戦の過程があるはずなんだ。好きなことを仕事にできている人、莫大な金を持っている人、ちいさい頃からの夢を叶えた人。そんな人たちはいくらでもいるけれど、挫折や失敗をひとつもしなかった人なんて、この世界にはおそらくひとりもいない。だからそれを畏れる必要はないんだ。たかがひとつの挫折や失敗で夢が潰えてしまうほど、佐藤君が持つ可能性はヤワじゃない。君はもう少し、君自身のことを信じてあげていいと思うけどな。過剰な練習というモノは遍く自己不信の顕れだからね」

そうでしょう? と言いたげに東海林は正平の顔を覗きこむ。自信に充ちた言葉やその表情に正平は苛立ちを覚える。明確な反骨心を以て正平は口を開く。


「でも、コーチは自信満々ですけど、結局怪我をして夢を叶えることはなかったんですよね? 以前『自信さえ身につけてしまえば夢を叶えることは難しくない』って言ってましたけど、コーチ自信がその言葉を否定する証左になっているじゃないですか」

「たしかに」と東海林は愉快そうに肯く。「当時の夢は叶えられなかった」それから彼は「ところで」と言葉を継ぐ。「最近のメニューをはじめにやるよってなった時、俺が言ったことは覚えてる?」

「モチロン、これが厭ならメンタル・トレーニングでもやるか、ですよね」

「違うよ、俺はそんなこと言ってない」

「言いましたよ」と正平。

「えぇ、本当に?」と東海林。自分の発言に責任を持たない類の大人だ、と正平のなかの反骨心が呟く。「まぁ言ったかもしれないけど、それじゃないよ。『基本の逸脱』がどうこうって話は覚えてない?」

「基本の逸脱……?」

「俺が『フォームを変える気はないか?』と訊ねたことは?」


「覚えています」と正平は言った。実際そちらはよく覚えている。変えるつもりはない、と応えると東海林はすんなりと肯いたはずだ。



実のところ、中学時代から正平は何度もフォームの変更を顧問やコーチ陣から提案されてきた。短距離走には大きく分類してふたつの疾走フォームがある。ひとつは一軸走法と言われるフォームで、現在トップ選手も含めて日本人のほとんどがこちらで鎬を削っている。もう一方は二軸走法と言われるフォームで、オリンピックや世界陸上などの国際大会でメダルを獲得する選手のほとんどはこちらのフォームでその表彰台の位置を勝ち獲っている。タイソン・ゲイやアサファ・パウエル、そしてモチロン、ウサイン・ボルトも後者のフォームで走るスプリンターであった。正平もそうだ。二軸走法を頑なに貫いている。


世界のトップスプリンターが二軸走法を選ぶのなら、日本人もそちらで走ればいいじゃないか! と思われるかもしれない。正平自身、はじめはそう考えて二軸走法を取り入れた。しかし、この走法、日本人には合わないのだ。一軸走法というのはできる限り走る際の無駄を削ぎ落とす、いわゆる引き算のフォームである。地面との設置時間をできる限り短くし、身体の上下左右のブレをできる限り減らす、あくまで繊細なフォームなのだ。対して二軸走法というのはひとことで表現するのなら、パワーでゴリ押しする走法である。力強く腕を振り、力強く地面を蹴る。それらを速い回転数で行う。そこには瞬発力とそれを継続するスタミナが要求される。テレビで百メートル走を見たことがある人ならわかるかもしれないが、日本人スプリンターとジャマイカやアメリカなどのスプリンターを見較べると、脚の長さが違う。四肢や胴回りについている筋肉量が違う。シンプルな話だ。一歩の幅では勝てない。馬力勝負でも及ばない。同じことをやっていては勝てるわけがないとされ、日本では一軸走法が短距離走界のスタンダードとされている。


しかし、と正平は思う。理屈は、わかる。しかし正平は二軸走法で勝ちたい。理由? そんなモノも、シンプルで。ただの拘りである。そして拘りとは感情的な問題で、となれば理屈で理解していたところでどうしようもない。理に屈する者が果たして天才たり得るだろうか? おそらく、否だ。そしていまさらフォームを変えることへの恐怖もある。一軸走法に矯正をして、それでも勝てない――そうなるくらいならば自らの拘りと共に心中したい所存である。結果のために拘りを棄てて、それでも尚、結果を得られないと知った時、自分を本当に嫌いになってしまうのではあるまいか。



だから東海林がすぐに「そっか」と肯いたのは意外だった。今までの指導者たちは、もっと執拗にフォームの変更を説得してきたから。まぁ、その肯いた後で「このメニューやって」と件のトレーニングを寄越してきたのだが。


「そう、俺は九種類の筋力トレーニングを指示した。佐藤君はあからさまに厭な顔をした。その後、俺が言ったことは覚えていない?」


正平は首を捻る。正直、自分では厭な顔をした覚えはない。自分がしたことは覚えていない。人間とは得てしてそういうモノだ。


「『基本を逸脱することと、基本から逃げることをいっしょにしてはいけないよ。自分だけの道を歩む人は、一度身に付け、基本という常識の弱点を知った上でその鎧をぶち壊すだけのパワーがある人のことだ、そしてその筋力をつけるには、まず基本を身体に叩きこむ以外に道はない』、そういうことを言ったはずなんだけど。なんとなく、走りが健全になっている気がしていたから、覚えているもんだと思っていたよ」


「覚えていませんね」正平は素直に言った。それに健全という言葉にどことなく不満を抱く。才能というモノには、どこか不健全な印象があるから。君には才能がない、と遠回しに言われた気分だ。


「当時の俺の夢は叶わなかったけどね、今の俺にだって夢はあるんだよ」

「夢?」

「うん、俺の教え子が活躍して、『あれ、俺が育てたんですよ』って周りに自慢して回ること」冗談で言っているのか、本気で言っているのか判断がつかない。東海林は仄かに笑みを浮かべている。「まぁ、自分を信じることはたしかに難しいよね。だとしても、いや、だとするなら、かな。もう少し、俺のことを信じてオーバーワークはやめた方がいい。君を信じる、俺の言葉を信じて」

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